『エルネスト』

2017年10月18日 映画
日本橋まで見に行ってきました。
都内は他でも演っていましたが、映画館の入っている
コレド室町がなかなか寄り道のしがいがありそうだったので。
でも見終わった後、ご飯を食べて直帰
遊んで帰る気にはなれなかったし、早く家で
こうして感想を打ち込みたくて。

この映画は「見たい」というより「見ねば!」と思っていました。
冷戦下の中南米で革命に身を投じた日系人、という
プロフィールに、当然ながらCHの海原を重ねずにはいられませんでした。
ユニオンの総帥というラスボスとなってしまった海原ですが
彼にだって革命の理想に燃えた若き日があったはず
それを想像するヒントになるのではないかと。

ただ……ここから先は見終わった後の感想(なのでネタバレ注意)なのですが
あくまでこれ、日本とキューバの合作なんですよね。
なので革命体制礼賛、ビバ・クーバ、ビバ・ゲバラに傾かざるをえない
その辺のバイアスは見る際にちゃんと補正しておかないと。

日系ボリビア人のフレディが、医師になるためにキューバに留学後
如何にして革命とヒューマニズムに目覚めていくかという
店主本来のお目当てについては、本稿とは関係ないのでばっさり割愛【苦笑】
彼がキューバで学ぶ間に母国ではクーデターが発生
お約束のように親米軍事独裁政権が樹立されるわけですが
フレディは他のボリビア人留学生とともに、学業半ばで
母国を救うための「革命支援隊」に志願するのですけれど……
これって、映画の初めに触れられていた『ピッグス湾事件』
(キューバ革命直後、米が亡命キューバ人による部隊を
侵攻させ革命の転覆を狙うが失敗)と構図はほぼ同じなんですよね。
しかも、軍事政権下での圧政については言及されているものの
それに対するフレディらの蜂起の中で、現地のボリビア人の
存在の何と希薄なものか……もちろん「キューバ映画」でもあるので
彼らに協力する貧しい農民、という姿も書かれているけど
ボリビアの山中で彼の舞台を襲撃した政府軍の中にいた
フレディの幼馴染みの方が
よりリアルなボリビア人の姿だったんじゃないでしょうか。

こういうのを見ると、また日本の学生運動や
「あさま山荘」といったそのなれの果てを取り上げた
テレビ番組などを見るたびに思うのは
『革命』というのはプチブルの自己満足なんじゃないかということ。
フレディの父は日本からの移民ですが、苦労の末小さな村に
雑貨店を開いた、云わば結果的に「中産階級」に納まった人物
   英文学崩れなので、どうしても「貴族」「中産」「労働者」の
   3分割で考えてしまいがち

一方のフレディの幼馴染み、ティトは同じ村でも
小さな粗末な家で暮らし、病気でも医者にかかれない。
「階級・階層」という点でどちらによりシンパシーを感じるかというと
自分の場合、ティトの方なんですよね……店主自身は
大学院まで行かせてもらいましたけど、元をたどれば
ウチの両親の50年前は、ざっくり言ってしまえば
朝ドラ『ひよっこ』のみね子の弟妹と同じようなもんでしたから。
映画の後半ではクソでしたが、フレディの留学生仲間のベラスコもそう。
彼はただ奨学金がもらえるからキューバに来ただけであって
左翼運動に盛り上がろうとする仲間たちに向かって
「君たちは本当の貧しさを知らない」と捨て台詞。
結局、本当に貧しく力のない人間は
体制に順応しなければ生きていけない。
大人になって健康になって、軍隊に入って
その中で出世の道を得られたティトもそう。
ならば、フレディやゲバラが目指した「解放」は
外からの勝手な押しつけに過ぎないのだろうか――

現在、ボリビアをはじめ中南米各国から親米軍事政権は一掃され
ピノチェト訴追のように、彼らの行ったことは人権侵害だということは
一定のコンセンサスを得られているわけですが
だからといってゲバラがしたことが正しかったかというと
歴史はそんなに簡単に白黒つけられるわけじゃないんですよね。
店主がCH二次をやるにあたって、撩のことを
挫折した元・革命の闘士」と位置付けているのも、その辺があるからのこと。
確かにフレディはゲリラ名「エルネスト・メディコ」≒「誠実な医師」に
恥じない生き方をし、その名前に殉じたかもしれない。
でもそれは一個人にとっては美談であっても
彼を取り巻く何ものかに翻弄された生涯といえるかもしれない
――そう考えると海原が闇堕ちしたのも何となく判るわ
彼もどこかで若くして生命を落とせば
「革命の英雄」で終われたのかもしれないし
逆にフレディももし生き延びることがあったら
海原になりえたかもしれないのだから。

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