バチカンとシテハンの意外な関係?
2013年3月21日 City Hunter
定点で取り上げたかったのですが
プロットがどうしても思い浮かばず
力尽きてしまったので、こっちで。
まぁまさかまたコンクラーベ→就任ミサを
見ることになるとは思いませんでした。
って、先々代が異例の長期政権だっただけで
ローマ法王って就任時はたいていお爺ちゃんなので
けっこうちょくちょく変わるものなのかもしれませんが。
さて、なんでカトリックのトップ交代劇を
CHと絡めて書こうと思ったのかというと
撩が中米育ちだというのが一番にあります。
もっとも、左翼ゲリラとキリスト教というのは
「宗教は民衆のアヘン」というレーニンの言葉のように
相容れないもののように思われるかもしれませんが、
中南米が独裁と内戦に大いに揺れていた当時
『解放の神学』と呼ばれる思想がかの地を中心にして起こりました。
それはキリスト教および聖職者が弱者救済のために
より積極的かつ具体的に関わっていこうという考え方でしたが
しばしばマルクス主義などと関連付けられて批判され
(ていっても軍事独裁政権およびそのバックについてるアメ公は
自分たちに歯向かうヤツ=共産主義者、でしたからねぇ)
先代法王も枢機卿時代にその矛先に立っていましたっけ。
そんなわけでカトリック内部でも異端視された『解放の神学』でしたが
新法王の掲げる「弱者のための教会」というスローガンは
まさしくそれなのではないでしょうか。
もちろんフランシスコ法王は南米アルゼンチン出身ですが
積極的にその一派と関わっていたという話は今のところ聞きません。
ただ、そこも軍事独裁下での人権侵害という過去があり
それに対する批判と教会としての反省というのもあったのでは。
案外、この弱肉強食のグローバリゼーションと
先進国の宗教離れが懸念される中、カトリック内で今後
『解放の神学』が主流近くで復活してくるのかもしれません。
さてさて、そんなわけで撩の育った国にも当時
ゲリラの味方にならないまでも、彼らに一定に理解を示したり
中には自らその一員になった聖職者もいたかもしれませんし(実際いた)
兵士の側だって、革命思想の持ち主であると同時に
多少土着的ではありますが、カトリックの信徒でもあったわけですから
撩にとって初めて触れた宗教的なものというのが
キリスト教のそれというのは大いに考えられることです。
もちろん養父の海原から日本的な倫理観というのも教わったとは思いますが
一歩外の世界に出ればほぼクリスチャンですからねぇ。
やっぱり店主のような典型的日本人=神仏混淆信者と
キリスト教信者とでは、ものの考え方・感じ方の根本が
違ってくることもあるのでしょうか?
普段、冗談半分でも「自業自得」とか「前世の報い」だとか
口にしますけれども、それってベースは仏教だったりしますし
だとしたらまず店主としてはそのベースのところから
違いを意識して描かなければいけないということになってしまうのか……
それ以外にも、ミックのエスニック・アイデンティティだったり
冴子をはじめとする野上姉妹の出身校だったり
後付けの個人的設定でやたらとカトリックが出てきてしまうんですよね。
まぁ、プロテスタントより個人的には好きというか←儀式フェチ
なので、新法王には弱者に寄り添うことも当然お願いしたいのですが
一方でカトリックならではの絢爛豪華さは無くさないでいただきたい。
やっぱり、あのきらびやかさは天国のイメージそのものだし
ひいてはそれがどんなに有難い説法にも勝る
視覚的な教化であるといえるのですから。
プロットがどうしても思い浮かばず
力尽きてしまったので、こっちで。
まぁまさかまたコンクラーベ→就任ミサを
見ることになるとは思いませんでした。
って、先々代が異例の長期政権だっただけで
ローマ法王って就任時はたいていお爺ちゃんなので
けっこうちょくちょく変わるものなのかもしれませんが。
さて、なんでカトリックのトップ交代劇を
CHと絡めて書こうと思ったのかというと
撩が中米育ちだというのが一番にあります。
もっとも、左翼ゲリラとキリスト教というのは
「宗教は民衆のアヘン」というレーニンの言葉のように
相容れないもののように思われるかもしれませんが、
中南米が独裁と内戦に大いに揺れていた当時
『解放の神学』と呼ばれる思想がかの地を中心にして起こりました。
それはキリスト教および聖職者が弱者救済のために
より積極的かつ具体的に関わっていこうという考え方でしたが
しばしばマルクス主義などと関連付けられて批判され
(ていっても軍事独裁政権およびそのバックについてるアメ公は
自分たちに歯向かうヤツ=共産主義者、でしたからねぇ)
先代法王も枢機卿時代にその矛先に立っていましたっけ。
そんなわけでカトリック内部でも異端視された『解放の神学』でしたが
新法王の掲げる「弱者のための教会」というスローガンは
まさしくそれなのではないでしょうか。
もちろんフランシスコ法王は南米アルゼンチン出身ですが
積極的にその一派と関わっていたという話は今のところ聞きません。
ただ、そこも軍事独裁下での人権侵害という過去があり
それに対する批判と教会としての反省というのもあったのでは。
案外、この弱肉強食のグローバリゼーションと
先進国の宗教離れが懸念される中、カトリック内で今後
『解放の神学』が主流近くで復活してくるのかもしれません。
さてさて、そんなわけで撩の育った国にも当時
ゲリラの味方にならないまでも、彼らに一定に理解を示したり
中には自らその一員になった聖職者もいたかもしれませんし(実際いた)
兵士の側だって、革命思想の持ち主であると同時に
多少土着的ではありますが、カトリックの信徒でもあったわけですから
撩にとって初めて触れた宗教的なものというのが
キリスト教のそれというのは大いに考えられることです。
もちろん養父の海原から日本的な倫理観というのも教わったとは思いますが
一歩外の世界に出ればほぼクリスチャンですからねぇ。
やっぱり店主のような典型的日本人=神仏混淆信者と
キリスト教信者とでは、ものの考え方・感じ方の根本が
違ってくることもあるのでしょうか?
普段、冗談半分でも「自業自得」とか「前世の報い」だとか
口にしますけれども、それってベースは仏教だったりしますし
だとしたらまず店主としてはそのベースのところから
違いを意識して描かなければいけないということになってしまうのか……
それ以外にも、ミックのエスニック・アイデンティティだったり
冴子をはじめとする野上姉妹の出身校だったり
後付けの個人的設定でやたらとカトリックが出てきてしまうんですよね。
まぁ、プロテスタントより個人的には好きというか←儀式フェチ
なので、新法王には弱者に寄り添うことも当然お願いしたいのですが
一方でカトリックならではの絢爛豪華さは無くさないでいただきたい。
やっぱり、あのきらびやかさは天国のイメージそのものだし
ひいてはそれがどんなに有難い説法にも勝る
視覚的な教化であるといえるのですから。
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