たまには経験者の愚痴
2012年10月11日 City Hunter旅先で朝たまたま見たインタビュー番組に軽く凹んだ【泣】
情報化社会と呼ばれ、調べれば簡単に知識を手に入れられることに
警鐘を鳴らし、実際に経験として体得したことに重きを置こうとする。
でも、それを貫こうとしたら店主の書けることなんて
本当にこれっぽっちも無いんですけどね。
新宿の街もドンパチもラヴもぜーんぶ調べた成果ですから。
まぁ、インタビューでそう言っていたご本人も
実経験としては絶対に得られないことをネタにして一山当ててますけどね。
ただ、登場人物と全く同じような経験をしたからといって
彼らの心情が判るかというと、そうとは全然限らなくて
むしろ全く違う結論に至ってしまうこともある。
自分にとっては、きょうだいを亡くすという経験がまさにそうでした。
CHでは香がよく兄の写真に語りかけたりしていますが
店主は全くそういうことはしないです。
部屋にも写真は置いてますし、手帳にも挟んでますが
あくまでポーズだけというか。酷い姉ですね【泣笑】
語りかけるからには香は死してもなお兄は傍にいて
自分のことを見守ってくれていると信じているのでしょうけど
店主自身はそういう存在を全く感じられないのです。
話しかけたところで、聞いてくれる気がしないのです
メールだって向こうは電波が通じませんので。
亡くなる前から自分の中で既に存在が
フェードアウトしていたのかもしれません。
長い入院で家にいないのが当たり前でしたし
連絡手段は毎日のメールとたまのお見舞いだけ。
それも、意識が無くなって話すこともできなくなってからは
逢いに行くことが苦痛でした。
そのときすでに自分の中で妹は死んでしまったかもしれません。
よく「大切な人の死を未だ受け入れられない」とかありますが
自分はさっさと受け入れすぎてしまったんでしょうか。
なので、妹が生きているかのように振る舞うことが
正直苦痛でもありました。
例えば、AHでもありましたが
夕飯のおかずを同じように妹にも取り分けること。
あげたところで食べて消えるわけじゃないのに(消えたら怖い)
でも、それをどうやって受け入れたかというと
その行動の意味を考えるのをやめました。
供えるとかいうのではなく、ただおかずを小皿に取り分けて
仏壇の前に置く、それだけ。
お墓だって、昔は行くのが嫌で嫌でたまりませんでした。
けれども今はしょうがないからついていきます。
行って、墓前に線香をあげて手を合わせて
そこで何かを思うわけでなし、ただ手を合わせて目をつむるだけ。
形だけであっても誰も何も判りゃしないんですから【爆】
そもそもお墓とか仏壇とか、そういうシステムが
自分の中で納得いってないというのがありました。
仏壇に手を合わせて、お墓参りしたらそっちでも手を合わせて
だったら妹の魂がいるのはどっちなんだと。
まして、そこで現世利益的なことをお祈りするのは
ものすごく抵抗がありました。前にもここで取り上げたことがありますが
そこにいる(とされている)のは、ただの自分の妹で
彼女に姉の人生を左右できるほどの力があるわけがない、
小さい頃から自分を庇護してくれた親や祖父母ならともかくとして。
今にして思えば、これこそが「先祖崇拝」なのかと
フィールドワーク感覚で冷静に捉えることもできますけどね。
でも、先祖というにはあまりにも卑近すぎるのではないでしょうか。
少なくとも妹があの世から、またはどこか傍から
店主のことを見守ってくれているという感覚はありません。
でも自分が死んだらまた逢えるかというと――そうも思えませんね
自分の中で、死んだらもうそこで終わりだと。
死後の世界というものを自分は信じていないんだと
家族を亡くして初めて気づきました。
というか、それの有る無しを考えたところで
今この世で生きている自分の生活には変わりはないですし。
そういう意味ではすっごくプラグマティックな人間だと思いますよ。
お葬式だって、あれは死者のためでなく
生き残った人たちのためにあるものだと。
哀しいからといって始終泣き暮らしていたら生活に支障が出ますので
ある一定の日を決めてそのときに泣くだけ泣いて
そうやって区切りをつけないと日常に戻れないですし、
やれ祭壇はどうする花はどうすると忙しく立ち働かなければなりませんので
それで哀しみは多少は薄れてしまうかと。
ただ一方で、今も見守ってくれていると思えないからこそ
妹亡き後、彼女の知らない自分になっていくのが辛くもあります。
妹の知らない服が増えていくのが
妹の知らないものに夢中になる自分が。
それは自分が今もこうして生き続けている以上
仕方のないことかもしれませんが。
店主が妹のためにできることは、結局のところ忘れないこと
納得してできることはそれだけしかありません。
生きている人の記憶の中にあるかぎり、死してもなお生き続ける
それだと妹を知っている人が全員死んだら終わっちゃうんですけどね【爆】
――店主がCH’として、槇兄生存パラレルを書いているのは
そういうことなのかもしれません。
写真に語りかけたり、せっせとお墓に通ったりする香を
その内面に寄り添って書くことがどうしてもできないので。
上っ面だけを書くこともできなくもないでしょうけど
それは店主の物書きとしての信義に悖りますから。
二次創作でおなじみの幽霊ネタも、夢の中等でなぜか
あの世の槇村と対話している話も、同じ理由で書けそうにありません。
ただ、死者との対話というモチーフが
形式として安定感があるのは否めないんですけどね。
自分でもそういう形に頼りたいという意識はありますし
でも、その形を上っ面だけ、自分が思ってもいないものを
描こうとするなら、それで決して読者の心を動かせそうにないですし……
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定点観測upしました。
情報化社会と呼ばれ、調べれば簡単に知識を手に入れられることに
警鐘を鳴らし、実際に経験として体得したことに重きを置こうとする。
でも、それを貫こうとしたら店主の書けることなんて
本当にこれっぽっちも無いんですけどね。
新宿の街もドンパチもラヴもぜーんぶ調べた成果ですから。
まぁ、インタビューでそう言っていたご本人も
実経験としては絶対に得られないことをネタにして一山当ててますけどね。
ただ、登場人物と全く同じような経験をしたからといって
彼らの心情が判るかというと、そうとは全然限らなくて
むしろ全く違う結論に至ってしまうこともある。
自分にとっては、きょうだいを亡くすという経験がまさにそうでした。
CHでは香がよく兄の写真に語りかけたりしていますが
店主は全くそういうことはしないです。
部屋にも写真は置いてますし、手帳にも挟んでますが
あくまでポーズだけというか。酷い姉ですね【泣笑】
語りかけるからには香は死してもなお兄は傍にいて
自分のことを見守ってくれていると信じているのでしょうけど
店主自身はそういう存在を全く感じられないのです。
話しかけたところで、聞いてくれる気がしないのです
メールだって向こうは電波が通じませんので。
亡くなる前から自分の中で既に存在が
フェードアウトしていたのかもしれません。
長い入院で家にいないのが当たり前でしたし
連絡手段は毎日のメールとたまのお見舞いだけ。
それも、意識が無くなって話すこともできなくなってからは
逢いに行くことが苦痛でした。
そのときすでに自分の中で妹は死んでしまったかもしれません。
よく「大切な人の死を未だ受け入れられない」とかありますが
自分はさっさと受け入れすぎてしまったんでしょうか。
なので、妹が生きているかのように振る舞うことが
正直苦痛でもありました。
例えば、AHでもありましたが
夕飯のおかずを同じように妹にも取り分けること。
あげたところで食べて消えるわけじゃないのに(消えたら怖い)
でも、それをどうやって受け入れたかというと
その行動の意味を考えるのをやめました。
供えるとかいうのではなく、ただおかずを小皿に取り分けて
仏壇の前に置く、それだけ。
お墓だって、昔は行くのが嫌で嫌でたまりませんでした。
けれども今はしょうがないからついていきます。
行って、墓前に線香をあげて手を合わせて
そこで何かを思うわけでなし、ただ手を合わせて目をつむるだけ。
形だけであっても誰も何も判りゃしないんですから【爆】
そもそもお墓とか仏壇とか、そういうシステムが
自分の中で納得いってないというのがありました。
仏壇に手を合わせて、お墓参りしたらそっちでも手を合わせて
だったら妹の魂がいるのはどっちなんだと。
まして、そこで現世利益的なことをお祈りするのは
ものすごく抵抗がありました。前にもここで取り上げたことがありますが
そこにいる(とされている)のは、ただの自分の妹で
彼女に姉の人生を左右できるほどの力があるわけがない、
小さい頃から自分を庇護してくれた親や祖父母ならともかくとして。
今にして思えば、これこそが「先祖崇拝」なのかと
フィールドワーク感覚で冷静に捉えることもできますけどね。
でも、先祖というにはあまりにも卑近すぎるのではないでしょうか。
少なくとも妹があの世から、またはどこか傍から
店主のことを見守ってくれているという感覚はありません。
でも自分が死んだらまた逢えるかというと――そうも思えませんね
自分の中で、死んだらもうそこで終わりだと。
死後の世界というものを自分は信じていないんだと
家族を亡くして初めて気づきました。
というか、それの有る無しを考えたところで
今この世で生きている自分の生活には変わりはないですし。
そういう意味ではすっごくプラグマティックな人間だと思いますよ。
お葬式だって、あれは死者のためでなく
生き残った人たちのためにあるものだと。
哀しいからといって始終泣き暮らしていたら生活に支障が出ますので
ある一定の日を決めてそのときに泣くだけ泣いて
そうやって区切りをつけないと日常に戻れないですし、
やれ祭壇はどうする花はどうすると忙しく立ち働かなければなりませんので
それで哀しみは多少は薄れてしまうかと。
ただ一方で、今も見守ってくれていると思えないからこそ
妹亡き後、彼女の知らない自分になっていくのが辛くもあります。
妹の知らない服が増えていくのが
妹の知らないものに夢中になる自分が。
それは自分が今もこうして生き続けている以上
仕方のないことかもしれませんが。
店主が妹のためにできることは、結局のところ忘れないこと
納得してできることはそれだけしかありません。
生きている人の記憶の中にあるかぎり、死してもなお生き続ける
それだと妹を知っている人が全員死んだら終わっちゃうんですけどね【爆】
――店主がCH’として、槇兄生存パラレルを書いているのは
そういうことなのかもしれません。
写真に語りかけたり、せっせとお墓に通ったりする香を
その内面に寄り添って書くことがどうしてもできないので。
上っ面だけを書くこともできなくもないでしょうけど
それは店主の物書きとしての信義に悖りますから。
二次創作でおなじみの幽霊ネタも、夢の中等でなぜか
あの世の槇村と対話している話も、同じ理由で書けそうにありません。
ただ、死者との対話というモチーフが
形式として安定感があるのは否めないんですけどね。
自分でもそういう形に頼りたいという意識はありますし
でも、その形を上っ面だけ、自分が思ってもいないものを
描こうとするなら、それで決して読者の心を動かせそうにないですし……
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定点観測upしました。
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