CH’参考文献――冴羽撩は神様の夢を見るか?
2012年9月10日 City Hunter
訳あってカトリックの結婚式について調べていて
そこで歌われる聖歌の歌詞を見てみたところ
そのあまりの能天気っぷりにあんぐりしてしまいました。
「神様はいらっしゃる」「神様は素晴らしい」
別にそんなことわざわざ結婚式で言わんでもええやん……
だったら、あえて用途を限って作られている
プロテスタントの結婚式用の讃美歌の方が
よっぽど使いやすいような。
無神論、ということについて一度ちゃんと
勉強しておかないとと思っていました。
というのも、撩について二次創作ではよく
「神様なんてのは信じていない」というような記述が出てくるので。
一方の店主は、宗教は信じていなくても信仰はある
つまり神様というのはいると無邪気に信じていて
むしろ信じていない人の方が信じられないくらいなので
自分の描く撩がどちらであるにせよ
無神論者の思考回路を知っておきたかったのです。
偶然図書館で見かけた、まさに題名そのものの本書ですが
キリスト教以前の古代ギリシアから
現代の科学的無神論(ちょっとだけ)にいたるまで
西洋思想史における無神論を通史的に取り扱った
言うなればマップ的な本としては使いようがあるかと。
読みながら驚いたのは、キリスト教的な『無神論』の幅の広さ。
その定義としては、まったく神的なものを信じていないというより
人格神としてのキリスト教の神、もうちょっと判りやすく言えば
ミケランジェロの『天地創造』に描かれているような
または子供向けの絵本にある白髪で長い髭の老人としての神の存在を
信じていなければすなわち無神論者であると。
「エホバ」や「ヤーウェ」に限定しちゃってもいいんですけどね。
なので、日本人にとって判りやすい万物に神が宿るという汎神論や
そういった具体的な図像化できる神ではなく
もっと人知を超えた『世界意志』のようなものにさえ
無神論のレッテルが貼られてしまうという乱発具合。
ちなみに、広義の『神』の不在という意味での無神論といえるのは
ようやく19世紀になってから、ショーペンハウアーやニーチェなど。
あとがきの一文を読んで、ようやくそのような狭義の無神論が
どのようなものか実感できたというのも恥ずかしい話なのですが
これが一番判りやすいと思うので、抜粋する怠惰をお許しください。
でも一方で、ヤツほど神の存在を理屈抜きで実感している人間も
そうはいないと思うのですけどね。
もちろんそれを「神」と呼ぶのか呼ばないかは彼の自由ですが
生きるか死ぬか全くの50:50の戦場で、都会の路地裏で
それでも彼を生かし続けたもの
己というちっぽけな操り人形の糸をどこかで引いているであろう
自分の目では見えないほど大きな、そして気まぐれな存在。
たぶん撩はそのようなものの存在自体は感じていると思います
ただ祈らないだけで。
神様というのは、祈れば何でも叶えてくれる
優しいものではありませんから。
だったら受験で落ちるやつはいませんって【苦笑】
===================================
定点観測upしました。
ずいぶん放置してたのでテコ入れで【笑】
そこで歌われる聖歌の歌詞を見てみたところ
そのあまりの能天気っぷりにあんぐりしてしまいました。
「神様はいらっしゃる」「神様は素晴らしい」
別にそんなことわざわざ結婚式で言わんでもええやん……
だったら、あえて用途を限って作られている
プロテスタントの結婚式用の讃美歌の方が
よっぽど使いやすいような。
無神論、ということについて一度ちゃんと
勉強しておかないとと思っていました。
というのも、撩について二次創作ではよく
「神様なんてのは信じていない」というような記述が出てくるので。
一方の店主は、宗教は信じていなくても信仰はある
つまり神様というのはいると無邪気に信じていて
むしろ信じていない人の方が信じられないくらいなので
自分の描く撩がどちらであるにせよ
無神論者の思考回路を知っておきたかったのです。
偶然図書館で見かけた、まさに題名そのものの本書ですが
キリスト教以前の古代ギリシアから
現代の科学的無神論(ちょっとだけ)にいたるまで
西洋思想史における無神論を通史的に取り扱った
言うなればマップ的な本としては使いようがあるかと。
読みながら驚いたのは、キリスト教的な『無神論』の幅の広さ。
その定義としては、まったく神的なものを信じていないというより
人格神としてのキリスト教の神、もうちょっと判りやすく言えば
ミケランジェロの『天地創造』に描かれているような
または子供向けの絵本にある白髪で長い髭の老人としての神の存在を
信じていなければすなわち無神論者であると。
「エホバ」や「ヤーウェ」に限定しちゃってもいいんですけどね。
なので、日本人にとって判りやすい万物に神が宿るという汎神論や
そういった具体的な図像化できる神ではなく
もっと人知を超えた『世界意志』のようなものにさえ
無神論のレッテルが貼られてしまうという乱発具合。
ちなみに、広義の『神』の不在という意味での無神論といえるのは
ようやく19世紀になってから、ショーペンハウアーやニーチェなど。
あとがきの一文を読んで、ようやくそのような狭義の無神論が
どのようなものか実感できたというのも恥ずかしい話なのですが
これが一番判りやすいと思うので、抜粋する怠惰をお許しください。
至るところの深山で、神社で、星を見上げ月を愛でて、何か彼方のものの風に吹かれ、つながっているような気分になっていたのはみな錯覚だったのだろうか。そう思うと、リアルな空しさに背筋が冷たくなった。その時初めて、無神論的な発想というものがもたらす取り返しのつかない重さをずっしり実感した。撩もまた思ったのだろうか、屍の累々と転がる荒野で。
でも一方で、ヤツほど神の存在を理屈抜きで実感している人間も
そうはいないと思うのですけどね。
もちろんそれを「神」と呼ぶのか呼ばないかは彼の自由ですが
生きるか死ぬか全くの50:50の戦場で、都会の路地裏で
それでも彼を生かし続けたもの
己というちっぽけな操り人形の糸をどこかで引いているであろう
自分の目では見えないほど大きな、そして気まぐれな存在。
たぶん撩はそのようなものの存在自体は感じていると思います
ただ祈らないだけで。
神様というのは、祈れば何でも叶えてくれる
優しいものではありませんから。
だったら受験で落ちるやつはいませんって【苦笑】
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定点観測upしました。
ずいぶん放置してたのでテコ入れで【笑】
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