3月11日の日記
2012年3月11日一年前のあの日あのとき、金曜日で仕事が休みだったので
その前からやっていて仕事に行く前の楽しみにしていた
『居眠り磐音』の再放送を3時から見ようと
こたつでごろんと横になっていました。
なんてことをこれから先も3月11日になるたびに
日記で書き続けるのかもしれません。
今年の3月11日14:46は、大学時代の恩師のお別れ会に行っていました。
震災とは全く関係のない場でその瞬間を迎えたというのが
この一年、ただひたすら自分のためだけに頑張り続け
自分のことばかり悩み続けた店主にとって
一番ふさわしい迎え方だったのではないかとも思いました。
先生は店主の直接の指導教官ではなかったのですが
店主をジェンダー関係に引きずり込んだ張本人といいますか
すでに高校時代からそっち方面の違和感を抱えていた店主が
当然のごとく先生の授業に出席した結果、
そっちの世界から戻ってこられなくなってしまいました。
その指導はとにかくハード、院ゼミにおいては
他のゼミの発表だったら要旨を掻い摘んだメモだけ用意しておけばいいものを
一言一句「です・ます」まで書き込んだ
『台本』を準備しなければなりませんでした。
それとハンドアウトの用意とで、ゼミのある金曜日の午前中はつぶれ
昼食をとるのも忘れてひたすら学校のPCに向かっていたほど。
そしてゼミ発表の本番では先生から容赦ない指摘が飛び
答えがおぼつかなければ次週に持ち越しになることも。
そんな『鬼のTゼミ』はもしかしたらここの日記でも語っていたかもしれません。
その先生がお亡くなりになったのは昨年の12月のこと。
メールで入ってきた突然の訃報に衝撃を受けたのは言うまでもありません。
まだまだ現役で、うちの母親と変わらない年齢。
11年度に入ってからは体調を崩してゼミも開店休業状態だと
大学に残っている知人からは聞いていましたが……
今日のお別れ会のあいさつで知ったことですが
珍しい種類のガンだったそうで。
そんなのは何千人、何万人に一人だから珍しいのであって
うちの妹も訳わかんない病気で亡くなりましたが
何で店主の周りだけで、こんなに『珍しい病気』が多いのでしょうか。
会場ではじゅるじゅるとすすり泣く声があちこちから聞こえましたが
自分の中ではそれほどまでこみ上げるものはありませんでした。
訃報を聞いてすでに3ヶ月という時間が経過していることもありましたし
先生と最後にお会いしたのももう1年近く前のこと。
それ以上に、もう自分にとっては捨ててきた世界のことなんだなと思いました。
当時の知人とはほとんど連絡も取りあっていませんし
(もともとやりとりもあまりありませんでしたが)
博士課程まで進んだらそのまま研究者になるもの、という常識を振り切って
何もかもを放り投げて社会人への道を選んだという決別めいたものもありました。
まぁ、妹のときも泣かなかった冷血漢ではありますけどね。
なので、お香典はお断りしますということだったので
会社で出したジェンダー・セクシュアリティ関係の本を
香典代わりに押しつけて(寄贈、ともいう)
その後の懇親会に出ずに帰ってきました。
たぶんそこではプチ同窓会のようにはなったのかもしれませんが
よけいに自分の居場所はここではないということが
ひしひしと思い知らされそうだったので。
じゃあ、自分の居場所はいったいどこなのだろうか?
会社――はむしろ純然たる『働く場所』であって
人づきあいの場ではない雰囲気のところなので
だからこそ店主のような人間が居心地良く働けているのですが、
自分にとってアウェイではなくホームゲームで戦える場所
自分がそこに『属せている』と思える場所――
そんなものはもしかしたらどこにも無く
たった一人、どこにも属することができないまま
一人で生きていくのかもしれません。
最後に、そんな店主を
誰とも身も心も繋がりあえず
そんな自分を肯定することもままならない不肖の教え子を
先生だったらどう斬ってくれたのでしょうか。
もっとも、そんなことたとえ生きていたって打ち明けられませんけどね。
その前からやっていて仕事に行く前の楽しみにしていた
『居眠り磐音』の再放送を3時から見ようと
こたつでごろんと横になっていました。
なんてことをこれから先も3月11日になるたびに
日記で書き続けるのかもしれません。
今年の3月11日14:46は、大学時代の恩師のお別れ会に行っていました。
震災とは全く関係のない場でその瞬間を迎えたというのが
この一年、ただひたすら自分のためだけに頑張り続け
自分のことばかり悩み続けた店主にとって
一番ふさわしい迎え方だったのではないかとも思いました。
先生は店主の直接の指導教官ではなかったのですが
店主をジェンダー関係に引きずり込んだ張本人といいますか
すでに高校時代からそっち方面の違和感を抱えていた店主が
当然のごとく先生の授業に出席した結果、
そっちの世界から戻ってこられなくなってしまいました。
その指導はとにかくハード、院ゼミにおいては
他のゼミの発表だったら要旨を掻い摘んだメモだけ用意しておけばいいものを
一言一句「です・ます」まで書き込んだ
『台本』を準備しなければなりませんでした。
それとハンドアウトの用意とで、ゼミのある金曜日の午前中はつぶれ
昼食をとるのも忘れてひたすら学校のPCに向かっていたほど。
そしてゼミ発表の本番では先生から容赦ない指摘が飛び
答えがおぼつかなければ次週に持ち越しになることも。
そんな『鬼のTゼミ』はもしかしたらここの日記でも語っていたかもしれません。
その先生がお亡くなりになったのは昨年の12月のこと。
メールで入ってきた突然の訃報に衝撃を受けたのは言うまでもありません。
まだまだ現役で、うちの母親と変わらない年齢。
11年度に入ってからは体調を崩してゼミも開店休業状態だと
大学に残っている知人からは聞いていましたが……
今日のお別れ会のあいさつで知ったことですが
珍しい種類のガンだったそうで。
そんなのは何千人、何万人に一人だから珍しいのであって
うちの妹も訳わかんない病気で亡くなりましたが
何で店主の周りだけで、こんなに『珍しい病気』が多いのでしょうか。
会場ではじゅるじゅるとすすり泣く声があちこちから聞こえましたが
自分の中ではそれほどまでこみ上げるものはありませんでした。
訃報を聞いてすでに3ヶ月という時間が経過していることもありましたし
先生と最後にお会いしたのももう1年近く前のこと。
それ以上に、もう自分にとっては捨ててきた世界のことなんだなと思いました。
当時の知人とはほとんど連絡も取りあっていませんし
(もともとやりとりもあまりありませんでしたが)
博士課程まで進んだらそのまま研究者になるもの、という常識を振り切って
何もかもを放り投げて社会人への道を選んだという決別めいたものもありました。
まぁ、妹のときも泣かなかった冷血漢ではありますけどね。
なので、お香典はお断りしますということだったので
会社で出したジェンダー・セクシュアリティ関係の本を
香典代わりに押しつけて(寄贈、ともいう)
その後の懇親会に出ずに帰ってきました。
たぶんそこではプチ同窓会のようにはなったのかもしれませんが
よけいに自分の居場所はここではないということが
ひしひしと思い知らされそうだったので。
じゃあ、自分の居場所はいったいどこなのだろうか?
会社――はむしろ純然たる『働く場所』であって
人づきあいの場ではない雰囲気のところなので
だからこそ店主のような人間が居心地良く働けているのですが、
自分にとってアウェイではなくホームゲームで戦える場所
自分がそこに『属せている』と思える場所――
そんなものはもしかしたらどこにも無く
たった一人、どこにも属することができないまま
一人で生きていくのかもしれません。
最後に、そんな店主を
誰とも身も心も繋がりあえず
そんな自分を肯定することもままならない不肖の教え子を
先生だったらどう斬ってくれたのでしょうか。
もっとも、そんなことたとえ生きていたって打ち明けられませんけどね。
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