劣等感のカタマリ

2010年9月22日
今日のY新聞『人生案内』から。

http://www.yomiuri.co.jp/jinsei/shinshin/20100922-OYT8T00171.htm?from=navr

正直、回答にがっかり。
かつて同じ人生案内で、暗い性格に悩む女学生に対する
数学者・藤原正彦教授の答えに快哉を叫んだものです。
「明るく活発な子が、よい子などとだれが決めたのでしょうか」と。
これで日本中、いや世界中のネクラが救われたと思います、このままでいいんだと。

まぁ、確かにコンプレックスをひけらかすのは
「アタシってこんなに可哀そう【泣】」と他人の同情を買う行為かもしれません。
この質問者だって、自分の勤めている会社の名前に
少なからずしがみついているようですし。
店主だったらそれすらもイヤですよ。
ちょっとは校名でハッタリの効く大学に籍を置いていますが
バイトの面接で言うの嫌ですもん。それだけで判断されますから。
自分がそんな御大層な人間じゃないっていうのは一番よく判ってます。

それを言ったら店主だって劣等感の塊ですよ。
そういうことを人前で言うこと自体劣等感じゃないのかもしれませんが
こんな過疎日記、人前というより「王様の耳はロバの耳」の穴倉でしょう。
顔かたちや性格だったら諦めがつきました。
だから今さら人を僻むことはありません。
ですが蛟 游茗としては、たとえば、定点観測だったらともかくとして
サイト本編に書いたものの中で店主の実際に経験したことは
ほんの1割にも満たないんじゃないでしょうか。
そのほとんどが本やネットといった二次情報を元にしたもの。
だから、そういうものを実際に体験として知っておられる方には
思わず意地悪な反応をしてみたくなってしまいます。
また、友達の友達が有名人なんて聞いたら
その友達1には悪いんですが、有名人の友達2がテレビに出ると
ぬいぐるみ程度なら画面に向かって投げつけたくもなります。
どうせ、有名人の友達どころか友達自体いないんですけどね。

自分でも、心が狭いなーと思います。
もしかして就職できても治らないんじゃないかとさえ思います。

回答者の方は、アドバイスとして「他人を愛することができれば
自分を愛することができる」と言っていますが
果たしてそれはどうなんでしょうか。
僻むの悩むのも他人を評価するゆえ、
だからといってそれが自己評価につながるのか・・・
だったらもっとストレートに「自分を好きになりなさい」でもいいはず。
もちろん、好きになれればそんな苦労はしないのかもしれませんが
でも「良い」と「好き」は違うはず。
店主の場合、自分を評価していませんもの。
飼い犬にはナメられ、親の愛も疑わしい。
誰も自分のことを愛してくれないんだったら
自分で自分のことを愛してやるしかないじゃない。
そう思ってます。だから自分のことを好きだと言えます。
こんなダメダメ人間ですが。

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