この映画が公開されたとき、ポスト9.11的状況をよく表しているとかいって、ウチの大学のT教授だかそのお友達だかがどっかに書いていたような気がする。アメリカに向かう飛行機に乗っている最中に祖国でクーデターが発生し、パスポートが使えなくなってしまった=国籍を失ってしまった主人公・ビクターがまさしくアガンベン的『剥き出しの生』であると ウチのゼミ、アガンベン好きだからなぁ
そんなわけで彼はNYの街に出られない、さりとて祖国にも帰れないというわけでJFK空港のトランジット・エリアに缶詰にされ続ける羽目に。
確かにあそこは不思議な空間。入国審査をパスしない限り、物理的にアメリカの土を踏んでいるはずが「アメリカに入国した」ということにはなりませんから。
といっても店主、海外旅行に行ったことはおろか、空港には観光【笑】とお出迎えに行っただけ。そんなわけでトランジットにあれだけお店やらが並んでいる光景に、昔だったら驚いたかもしれませんが、今思うに「巨大な駅ナカじゃん」店主の良く知る赤羽駅あたりだとそうはいきませんが、大宮あたりだったら生活できるよ、多分【笑】
生きていくためには先立つものがいるわけで、ビクターはそんな駅ナカならぬ『空ナカ』のお店でバイトしようとしますが、住所も電話番号もメールアドレスもない彼が当然仕事にありつけるはずはなく。むしろそんな一エピソードが『剥き出しの生』というものをまざまざと見せつけていたような気がします。ああ、自分たちはそんなもので身にまとっていたんだと。
むしろ店主がこの映画を見て思いだしたのは、M1だか2だかで読まされたジュディス・バトラー 今ジェンダー・セクシュアリティを語る上で外せない現代思想の大物。詳しくはググるなりWiki見るなりすれば判るけど、少なくともここでは『世界三大悪文家』ということを覚えてもらえれば結構。
確かグアンタナモ収容所についてのエッセイだったのかな。そこに出てきたSoverigntyとAdministrationだっけ、まさにその二項対立がこの映画に現れていると思いました。
Administrationというのが法と手続きによる、あるべき教科書的統治の形。一方でSovereigntyというのは、そういった法と手続きを統治者の都合で捻じ曲げてしまうもの。
なぜビクターが暫定的無国籍という宙ぶらりんな状況に置かれても、敢えて扉を突破して街に出ることなく空港で待ち続けたのか。なぜなら彼は密入国者でもなければ不法就労をもくろんでいたのでもなく、法と手続きを重んじる善良な一般市民だったから。だから彼は信号が青になるのを待つように、合法的に入国できるのを待っていた、といえます。
9ヶ月(!)後、クーデターが集結し、ようやくクラコージア国民としての権利を回復し、これでNYの街に出られるはずのビクターが無理やり祖国に送り返されることに。その時、彼に帰国を迫った国土安全保障省の担当官・ディクソンのやり方こそまさにsovereigntyの権化!9ヶ月の間にビクターの友人となった空港従業員の勤務態度の欠点を挙げつらって、彼らのクビと引き換えに飛行機に乗せようとする。クビになるだけの勤務態度だったらその時点で解雇すりゃいいものを、普段は黙認しといてここぞとばかりにバーターにするんだから、権力の乱用以外の何物でもない!
とはいえ、単純な二項対立にできないのがこの映画のいいところ。
ビクターも、父親のために医師の書類なしで薬を持ち込もうとしたロシア人のために「山羊の薬だ」と言い張ったし、彼の仲間になったインド人移民の清掃員の爺さんなんて、『税金』を巻き上げる警察官(それ自体Sovereigntyの象徴)を刺してアメリカに逃げてきたというんだから。犯罪者であろうとも、真面目に地味に生きていれば捕まらないとうそぶき、実際それで数十年間アメリカで生きてこれたわけだから、その事実がまさに法執行の恣意性を表しているといえますね。
まぁ、そんな七面倒くさいことを考えなくても充分面白いです、この映画。
といってもコメディ映画のような爆笑というのでなく、クスリとさせられる笑いというのでしょうか。例えばビクターが思いを寄せる客室乗務員を空港内の特等席でのディナーに招待したとき、インド人の爺さんがなぜか皿回ししてたりとか【笑】
そしてほろりとさせられます。この辺のツボはさすがにスピルバーグ。
でも、トム・ハンクスといえばすっかりフィックスの江原正士の名演がありましたが、こればかりは字幕で、英語を聞きながら見た方が良かったかも。こっちの都合なんてお構いなしに浴びせられるネイティヴの英語の雨あられを浴びながら見た方が、ビクターの孤独と心細さを同じ非ネイティヴとして共感できたと思いますから。
そんなわけで彼はNYの街に出られない、さりとて祖国にも帰れないというわけでJFK空港のトランジット・エリアに缶詰にされ続ける羽目に。
確かにあそこは不思議な空間。入国審査をパスしない限り、物理的にアメリカの土を踏んでいるはずが「アメリカに入国した」ということにはなりませんから。
といっても店主、海外旅行に行ったことはおろか、空港には観光【笑】とお出迎えに行っただけ。そんなわけでトランジットにあれだけお店やらが並んでいる光景に、昔だったら驚いたかもしれませんが、今思うに「巨大な駅ナカじゃん」店主の良く知る赤羽駅あたりだとそうはいきませんが、大宮あたりだったら生活できるよ、多分【笑】
生きていくためには先立つものがいるわけで、ビクターはそんな駅ナカならぬ『空ナカ』のお店でバイトしようとしますが、住所も電話番号もメールアドレスもない彼が当然仕事にありつけるはずはなく。むしろそんな一エピソードが『剥き出しの生』というものをまざまざと見せつけていたような気がします。ああ、自分たちはそんなもので身にまとっていたんだと。
むしろ店主がこの映画を見て思いだしたのは、M1だか2だかで読まされたジュディス・バトラー 今ジェンダー・セクシュアリティを語る上で外せない現代思想の大物。詳しくはググるなりWiki見るなりすれば判るけど、少なくともここでは『世界三大悪文家』ということを覚えてもらえれば結構。
確かグアンタナモ収容所についてのエッセイだったのかな。そこに出てきたSoverigntyとAdministrationだっけ、まさにその二項対立がこの映画に現れていると思いました。
Administrationというのが法と手続きによる、あるべき教科書的統治の形。一方でSovereigntyというのは、そういった法と手続きを統治者の都合で捻じ曲げてしまうもの。
なぜビクターが暫定的無国籍という宙ぶらりんな状況に置かれても、敢えて扉を突破して街に出ることなく空港で待ち続けたのか。なぜなら彼は密入国者でもなければ不法就労をもくろんでいたのでもなく、法と手続きを重んじる善良な一般市民だったから。だから彼は信号が青になるのを待つように、合法的に入国できるのを待っていた、といえます。
9ヶ月(!)後、クーデターが集結し、ようやくクラコージア国民としての権利を回復し、これでNYの街に出られるはずのビクターが無理やり祖国に送り返されることに。その時、彼に帰国を迫った国土安全保障省の担当官・ディクソンのやり方こそまさにsovereigntyの権化!9ヶ月の間にビクターの友人となった空港従業員の勤務態度の欠点を挙げつらって、彼らのクビと引き換えに飛行機に乗せようとする。クビになるだけの勤務態度だったらその時点で解雇すりゃいいものを、普段は黙認しといてここぞとばかりにバーターにするんだから、権力の乱用以外の何物でもない!
とはいえ、単純な二項対立にできないのがこの映画のいいところ。
ビクターも、父親のために医師の書類なしで薬を持ち込もうとしたロシア人のために「山羊の薬だ」と言い張ったし、彼の仲間になったインド人移民の清掃員の爺さんなんて、『税金』を巻き上げる警察官(それ自体Sovereigntyの象徴)を刺してアメリカに逃げてきたというんだから。犯罪者であろうとも、真面目に地味に生きていれば捕まらないとうそぶき、実際それで数十年間アメリカで生きてこれたわけだから、その事実がまさに法執行の恣意性を表しているといえますね。
まぁ、そんな七面倒くさいことを考えなくても充分面白いです、この映画。
といってもコメディ映画のような爆笑というのでなく、クスリとさせられる笑いというのでしょうか。例えばビクターが思いを寄せる客室乗務員を空港内の特等席でのディナーに招待したとき、インド人の爺さんがなぜか皿回ししてたりとか【笑】
そしてほろりとさせられます。この辺のツボはさすがにスピルバーグ。
でも、トム・ハンクスといえばすっかりフィックスの江原正士の名演がありましたが、こればかりは字幕で、英語を聞きながら見た方が良かったかも。こっちの都合なんてお構いなしに浴びせられるネイティヴの英語の雨あられを浴びながら見た方が、ビクターの孤独と心細さを同じ非ネイティヴとして共感できたと思いますから。
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