連続幼女誘拐殺害 宮崎勤死刑囚の死刑を執行 [朝日新聞]
2008年6月17日 時事ニュース
駅売りの夕刊の見出しに見つけて、感慨深いものがありました。あの当時、店主もまたミヤザキツトムの影におびえた幼女でした。
同世代であの頃の事件とかを覚えている人は少ないかもしれませんし、まして店主以下の、当時幼稚園生だった世代あたりでは薄ぼんやりとした記憶しか無いかもしれませんが、あれから20年経ち、そして死刑執行という形で一つのケリがつけられたことで、あれからの歳月を意識せずにはいられません。
当時はごく稀な、特異な事件と誰もが思っていたかもしれない。
ミヤザキを捕まえればもう子供たちが狙われることはないと。
だがそんな目論見はもろくも崩れた。
それ以後も子供たちは狙われ、姿を消し、命を奪われ続けた。
広島で、奈良で、店主の身の回りも例外ではなく
その数年後、足利で幼い少女が殺害されたし、
今市の事件はまだ犯人は逮捕されていない。
これは模倣犯と呼ぶに余りある。
あたかもこの事件を機に、全国の小児性愛者の残虐な嗜好が
目覚めさせられてしまったのではないかと思うほど。
(神戸の連続児童殺傷事件が少年たちの残虐さを呼び覚ましたように)
あれ以後、子供たちは徹底して言われ続けている
「知らない人についていってはいけません」と、
そして人を見たら不審者と思えと。
それでいいはずがない。
大人の勝手な幻想かもしれないが、せめて子供の頃は
世界に対する無条件の、無邪気な信頼の中
人生のスタートを切らせてあげたい。
だが子供たちはいきなり不信感に満ちた社会に放り出されるのだ、
“自分たち”以外は害をなす敵だと。
精神鑑定なるものが取り沙汰されたのも
この事件の裁判からだったかもしれない。
あまりにも残虐すぎて、あまりにも猟奇過ぎて
そうでもしないと常人の尺度では計れなかったから。
だが今ではそれが刑を減じるための、また無罪を勝ち取るための
弁護側の姑息な武器となっていないだろうか?
一つ残虐な――殺人というのはおおむね残虐なものだが――
事件が発生すれば、法廷で弁護側は必ず精神鑑定を要求する。
だがそれによって事件の真相から、正義の裁きから遠ざかってはいないだろうか。
おそらくこの間の秋葉原の容疑者もそうなるだろう。
父の言ったことだが「殺人を犯すやつは多かれ少なかれ気が触れている」
名言だと思うのだが。
そしてこの事件が無ければ『オタク』なる言葉が
今のような市民権を得なかっただろう。
TVに映し出されたミヤザキの部屋――ビデオとマンガ本が
壁のほぼ全面を覆い尽くしている――に衝撃を受けた人も多いはずだ。
だが今、その映像をニュースで見ても驚くことはない。
仮にもオタクを自称している人間の部屋なら普通の光景だ。
アイドルの部屋にマンガが山積みになっていても
初めてあの部屋を目にした時ほどのショックは感じないだろう。
そんな映像一つ取っただけで、当時とは隔世の念がある。
あの頃のオタクは犯罪者予備軍のような目で見られ
そうでなくても白眼視され、「気持ち悪い」と隔離された。
それが今はどうだ、落ち込む個人消費の救世主であり
日本の誇るべき輸出商品となっている。
そして何より、かつてオタクにおびえた幼女が
今となってはオタクの端くれになっている【爆】
もはやオタクは加害者ではない、むしろ被害者だ。
先日の秋葉原連続殺傷事件で『オタクの街』が狙われたように。
それはオタクが弱くなったというわけではない。
犯罪というのが弱者の声なき叫びだとするのなら
オタクもまた弱者を虐げる強者となってしまったのではないか。
少なくとも、オタクの中にも強者と弱者が分かれつつあるのではないか。
もしあの事件が起きなければ世の中はどうなっていただろうか。
子供たちは無邪気に外を駆け回り
犯罪者は詭弁を弄することなく裁かれ
オタクと呼ばれる人々はひっそりと己の趣味を追求しているのだろうか。
それともミヤザキがやらずとも誰かがやったのだろうか。
ともかく、一つだけ言えることは
あの事件が日本の犯罪を、そして社会を一変させてしまったということだ。
同世代であの頃の事件とかを覚えている人は少ないかもしれませんし、まして店主以下の、当時幼稚園生だった世代あたりでは薄ぼんやりとした記憶しか無いかもしれませんが、あれから20年経ち、そして死刑執行という形で一つのケリがつけられたことで、あれからの歳月を意識せずにはいられません。
当時はごく稀な、特異な事件と誰もが思っていたかもしれない。
ミヤザキを捕まえればもう子供たちが狙われることはないと。
だがそんな目論見はもろくも崩れた。
それ以後も子供たちは狙われ、姿を消し、命を奪われ続けた。
広島で、奈良で、店主の身の回りも例外ではなく
その数年後、足利で幼い少女が殺害されたし、
今市の事件はまだ犯人は逮捕されていない。
これは模倣犯と呼ぶに余りある。
あたかもこの事件を機に、全国の小児性愛者の残虐な嗜好が
目覚めさせられてしまったのではないかと思うほど。
(神戸の連続児童殺傷事件が少年たちの残虐さを呼び覚ましたように)
あれ以後、子供たちは徹底して言われ続けている
「知らない人についていってはいけません」と、
そして人を見たら不審者と思えと。
それでいいはずがない。
大人の勝手な幻想かもしれないが、せめて子供の頃は
世界に対する無条件の、無邪気な信頼の中
人生のスタートを切らせてあげたい。
だが子供たちはいきなり不信感に満ちた社会に放り出されるのだ、
“自分たち”以外は害をなす敵だと。
精神鑑定なるものが取り沙汰されたのも
この事件の裁判からだったかもしれない。
あまりにも残虐すぎて、あまりにも猟奇過ぎて
そうでもしないと常人の尺度では計れなかったから。
だが今ではそれが刑を減じるための、また無罪を勝ち取るための
弁護側の姑息な武器となっていないだろうか?
一つ残虐な――殺人というのはおおむね残虐なものだが――
事件が発生すれば、法廷で弁護側は必ず精神鑑定を要求する。
だがそれによって事件の真相から、正義の裁きから遠ざかってはいないだろうか。
おそらくこの間の秋葉原の容疑者もそうなるだろう。
父の言ったことだが「殺人を犯すやつは多かれ少なかれ気が触れている」
名言だと思うのだが。
そしてこの事件が無ければ『オタク』なる言葉が
今のような市民権を得なかっただろう。
TVに映し出されたミヤザキの部屋――ビデオとマンガ本が
壁のほぼ全面を覆い尽くしている――に衝撃を受けた人も多いはずだ。
だが今、その映像をニュースで見ても驚くことはない。
仮にもオタクを自称している人間の部屋なら普通の光景だ。
アイドルの部屋にマンガが山積みになっていても
初めてあの部屋を目にした時ほどのショックは感じないだろう。
そんな映像一つ取っただけで、当時とは隔世の念がある。
あの頃のオタクは犯罪者予備軍のような目で見られ
そうでなくても白眼視され、「気持ち悪い」と隔離された。
それが今はどうだ、落ち込む個人消費の救世主であり
日本の誇るべき輸出商品となっている。
そして何より、かつてオタクにおびえた幼女が
今となってはオタクの端くれになっている【爆】
もはやオタクは加害者ではない、むしろ被害者だ。
先日の秋葉原連続殺傷事件で『オタクの街』が狙われたように。
それはオタクが弱くなったというわけではない。
犯罪というのが弱者の声なき叫びだとするのなら
オタクもまた弱者を虐げる強者となってしまったのではないか。
少なくとも、オタクの中にも強者と弱者が分かれつつあるのではないか。
もしあの事件が起きなければ世の中はどうなっていただろうか。
子供たちは無邪気に外を駆け回り
犯罪者は詭弁を弄することなく裁かれ
オタクと呼ばれる人々はひっそりと己の趣味を追求しているのだろうか。
それともミヤザキがやらずとも誰かがやったのだろうか。
ともかく、一つだけ言えることは
あの事件が日本の犯罪を、そして社会を一変させてしまったということだ。
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