HPの方ではまだ告知していませんが、naruさまのサイトに店主の駄文がupされております。相互リンク記念にとのことで あ、ここでリクの内容バラしていいのかな 『ごとしのな槇冴』というリクエストを頂き、CHファン兼パトファンとしてはかなり気合の入った、入りすぎて空回りした作品となってしまいました。だって、リク頂いたの2月だよ・・・。

そんなわけで昼行燈/カミソリ【笑】な槇村を書くのがとても楽しかったです。ただ、しのぶさんのキャラに引きずられて冴子姐さんがちょっと生真面目になってしまいましたが、まぁ仕方がない。まだまだ若いころの、女狐修行中【笑】とのことで。CDDでも「若いころはまだ初心だった」みたいなこと書きましたし。
しかも「槇&冴が上の命令を無視して真犯人を追う」っていうプロットは、現在連載中の『Promise〜遠い過去、そして未来』で二人の父親’sのやってることですし【爆】プロットが思い浮かばなくって流用したのバレバレ。
ということで二人の刑事時代の連作とかやりたいな熱がちょっと再燃しております。新人キャリアで現場研修にやってきた冴子の教育係を押し付けられた槇村刑事のお話。題名も一応決めてあるし♪

そして、書いているうちに思わず槇村に口にさせてしまったことについて。後書きやnaruさまへのメールで言うにも何だったので、この場をお借りしてちょっと語りたいのですが。
イタリアの哲学者、ジョルジオ・アガンベンの著作に『ホモ・サケル』がある。この言葉はもともとラテン語で、古代ローマの刑罰の一つとしてこのホモ・サケルとなった罪人を殺しても罪にならないのだという。つまり法の庇護から追放されてしまうのだ。ちなみにこのhomo sacerという意味は「聖なる人」というのは何とも皮肉である。
(もともと『聖なるもの』には両義性が秘められているというし)
この概念をユダヤ系イタリア人であるアガンベンはナチスの強制収容所などと関連付けて現代の『生政治』の問題として論じているのだが、店主が関心を抱いたのはむしろこの古来からの『ホモ・サケル』のイメージ。
以前から「何で人を殺しちゃいけないんですか?」と訊かれたら「殺したいんなら殺しなさい、その代りあんたも殺される覚悟があるんならね」と答えようと思っていた店主ですが(それゆえ戦場での殺人は理屈上は容認される。だって殺すか殺されるかですから、戦争というものは)
これを地で行っているのが、まさにシティーハンター・冴羽撩なんじゃないでしょうか。
このような法の庇護から外れた状態をアガンベンは『剥き出しの生』と呼んでいますが、それは冴羽撩という人間そのもの。
法的な存在証明である戸籍を持たない彼は、書類の上では存在しない人間。彼の存在を証明するのは、文字通り彼の――生身の人間としての――存在のみ。
法を破ったから法から外れるのであれば、その逆、つまり法から外れることで法を破ることが許される、という理屈も成り立つはず。
もちろん海坊主やミックのような、一応真っ当な生まれを持っているスイーパーもいるし、そっちの方がほとんどのはず。しかし撩のこの特異な存在こそが法の外の人間、つまり『裏の世界の人間』というものを如実に表しているんじゃないでしょうか。
彼らは決して強者なのではない。むしろ法という、表の人間ならだれでも持っているはずの盾を持たない、究極の弱者なのだと。

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