院生やりながらヲタクやるのは(というかむしろヲタクやりながら院生やるのは)いろいろ大変ですが、でも意外な接点があって面白いです。
院生として現代思想なんかに触れて思うのは、「ヲタクってのはポストモダンの実践なのではないか?」ということ。
ポストモダンといえば、一時、今の『萌え』のように意味の判らないままよく使われていたような言葉ですが、店主にも正しい定義は判りません。ただ、特徴をいろいろ並べていけば何となくのイメージはできるんじゃないでしょうか。イメージだけなら。

ポストモダンの特徴の一つとして挙げられるのが、現代はオリジナルなき時代であるというテーゼ。オリジナルが無いのならばどうするか。すでにあるものを切って貼って自分のものとして作り変えていくしかないんです。
『コラージュ』という言葉もまた美術用語を飛び越えてポストモダンの重要なキーワードになってます。
具体的にはどういうことかというと、たとえば例えが少し古いかもしれないけどヒップホップのDJ。あれもすでにあるレコードをスクラッチしたりなんかして「演奏」するわけだから。
また、映画『ムーランルージュ』もかなりポストモダンかも。普通、ミュージカル映画では『サウンド・オブ・ミュージック』では『エーデルワイス』や『マイ・フェイバリット・シング』のような印象深いオリジナルナンバーがありますが、『ムーランルージュ』だとユアン・マグレガーが『ユア・ソング』歌ってるんだもん!でも、オリジナルのインストは結構フィギュアなんかで使われてるらしいですね

そんなオリジナルなき時代の表現形式として挙げられるのが、店主もやってる二次創作なんじゃないでしょうか。だってそれは一から自分で作った設定で勝負せずに、すでにある物語を土台としているんですから。
そこではある意味、著作権というものは過去の遺物なのかもしれない。
それを如実に表しているのは、CHとAHをめぐる問題だといえます。
個人の才能に対してリスペクトを与える近代的著作権の考え方からすれば、AHは原作者がCHの続編を意図して描いた以上、それは誰が何と言おうとCHの続編ということになります。
しかし、現実はそうではなかった。何がCH的であって何がCH的ではないかを決定するのは原作者でも出版社でもなく、実はファンだった。その結果があの『パラレル宣言』だったわけです。
そしてAH自体が「原作者による二次創作」呼ばわりされ、数あるファンによる同人誌と同じレベルに引きずり降ろされてしまったのが現状じゃないでしょうか。
っていうか最近では原作者自らがコミケで自作のパロディ本作って売ってるご時世ですからね【苦笑】
CH二次創作でも、AHよりよっぽどCH的なものは結構ありますし。
そもそも、原作のCHそのものも北条センセ一人によって生み出されたものではなく、漫画家と二人三脚でダメ出ししながらアイデアを練り上げていった担当編集者、そして『読者アンケート至上主義』に代表されるファンもまた共同制作者であったはず。
おそらく今の北条センセは自分の好き勝手に描いてるんじゃないでしょうか。
しかしそれがCHを超えているかといったら・・・


もちろん著作権制度を否定するつもりはありません。
中国のパクリーランドには素直に腹が立ちました。
しかし、著作権は決して神聖にして犯すべきものではないんじゃないでしょうか。権利を持つ者は、誰のおかげでその地位にあぐらをかいていられるか、たまには胸に手を当てて考えてもらいたいものです。

拍手レス
6/5・23:43〜45 朱貴さま
一応、CH’という時間軸に入れようとすると
どうしてもヘタレになってしまうんですよね。
もちろんあの後のご想像はお任せしちゃってもよろしいのですが【笑】
>横浜〜新宿
わざわざNAVITIMEで検索してみました【爆】
有料道路で1時間ってとこです。

ついしん:昨日のバトン、やっぱりアンカーってことで。
    如何せん、ROM専の多い過疎ブログなもので【笑】

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