和のメイドに萌えよ!
2007年2月23日 映画
2ヶ月ぶりくらいにアルコールを摂取しながら観賞。
酒飲みながらだらだら2時間映画見るというのは店主にとって楽しみの一つ。最近それどころじゃなかったので(今でもそうだが)久々にまったりとできました。映画としての出来はどうあれ。
最近、藤沢周平ブームなのか(『週刊・藤沢周平』みたいなのも出てる)映像化される作品が増えた分、どっかで聞いたようなプロットだなというのが目についた。藤沢作品のヒロインはたいてい人妻か出戻り、とか。
山田洋二の三部作の場合、短編を監督が一つの映画にしてるという分同じようになってしまうのかもしれないけど。でも、同じようなプロットだからこそ、その違いに作り手側の意図が見え隠れするような気がする。
『たそがれ清兵衛』も『隠し剣 鬼の爪』もともに上意による決闘、というのがクライマックスになっている。しかし『たそがれ』の場合そこで終わってしまっている。そして生還した後、娘と愛する人に迎えられるといういかにも娯楽映画な結末にはちょっと違和感を抱いてしまった。武士とはいえ人を斬ることへの畏れを抱いていた清兵衛が実際に人を斬ってきた後、家族の象徴するような日常の世界にすんなりと戻れたのだろうかと。
もしかしたら監督自身もこの結末に違和感を抱いていたのかもしれない、なぜなら『隠し剣』はそこで終わらないのだから。もちろん見ず知らずの謀反人と、謀反人とはいえ兄弟弟子という違いはあるが、人を殺すという事実は同じ。『隠し剣』の主人公・宗蔵はそれを受け止め、禄を返上し武士の身分を捨てる。その姿こそ店主が『たそがれ清兵衛』で感じた違和感に対する山田監督なりの答えなのかもしれない。
同じようなリンクがやはり『武士の一分』にも繋がっていると思う。たとえば、夫の助命のため家老にその身を差し出した狭間の妻は、シチュエーションとしては同じではないか。
だが店主が萌えたのはそんなとこじゃない。下級武士と奉公人の娘との切ない恋とあるが、「旦那様が私の作った夕飯を美味しそうに食べてる姿を見てるだけでいい」なんて王道メイド萌えメイド喫茶等のコスプレではなく、あくまで史実のメイドさんに萌え〜の世界じゃないですか!と思ったのは最近ようやく『エマ』を読破したからだけじゃないはず。
確かに、女中を英訳すればmaidですからね。コスプレだけでなくこのメンタリティに萌えよ!しかしなぜ人はメイドに萌えるかというと、そこに上下関係があるからかもしれない。身分の差がある、だけど心が通じ合う。そのギャップに人は萌えるのだ。
これが対等な関係――例えば夫婦の間柄だったら、「判り合えて当然」となる。逆に「当然」なのに判り合えないという不満も出るかもしれない。
だが、考えてみれば一世代前の夫婦関係なんてのはまさに「旦那様と女中」だった。
昔のホームドラマだと、お母さんはお父さんには敬語でしたよね。
近代法のもとでは対等であるはずの夫婦関係、であるにもかかわらずそこに上下関係があると指摘したのがフェミニズム(って言い方なんかこそばゆいんだよな)なわけで、その結果、女性とパンストは強くなった。
じゃあ昨今のメイドさんブームというのは、もはや家庭で「旦那様」とかしずかれなくなった男たちの反動的復古趣味なのかもしれない。
だが、ここで描かれている「旦那様と女中」の関係は、決してウーマンリブ(注・「フェミニズム」の蔑称)がとやかく言うような支配と服従の構図じゃないはず。
いわば甘噛みの上下関係と言うべきか。
この「甘噛み」という語、辞書には載ってないけど普通の言葉なんですね。
動物がじゃれあって噛み合ったりするのとか。実は店主、18禁で覚えたクチですが【爆】
最後のシーン、きえは宗蔵に対する恋心など、そんな身分違いなことなど「考えたことなどなかった」という。そんなきえに対して宗蔵は「じゃあ考えろ」と言うのだが
きえ「それは命令だべか」
宗蔵「――命令だ」
もちろんそこには厳格な上下関係はない、あくまで人間同士の対等な関係があってそれが上下関係という衣を着てるだけ、あくまで「振り」なのだ。
そう思うとメイド萌えの封建性とか夫婦の平等とかいうのが馬鹿らしくなってくる。たまにはメイドプレイもいいんじゃないだろうか、あくまでコスチュームプレイなのだから。要は心が通じ合ってればそれでいいだけの話。
酒飲みながらだらだら2時間映画見るというのは店主にとって楽しみの一つ。最近それどころじゃなかったので(今でもそうだが)久々にまったりとできました。映画としての出来はどうあれ。
最近、藤沢周平ブームなのか(『週刊・藤沢周平』みたいなのも出てる)映像化される作品が増えた分、どっかで聞いたようなプロットだなというのが目についた。藤沢作品のヒロインはたいてい人妻か出戻り、とか。
山田洋二の三部作の場合、短編を監督が一つの映画にしてるという分同じようになってしまうのかもしれないけど。でも、同じようなプロットだからこそ、その違いに作り手側の意図が見え隠れするような気がする。
『たそがれ清兵衛』も『隠し剣 鬼の爪』もともに上意による決闘、というのがクライマックスになっている。しかし『たそがれ』の場合そこで終わってしまっている。そして生還した後、娘と愛する人に迎えられるといういかにも娯楽映画な結末にはちょっと違和感を抱いてしまった。武士とはいえ人を斬ることへの畏れを抱いていた清兵衛が実際に人を斬ってきた後、家族の象徴するような日常の世界にすんなりと戻れたのだろうかと。
もしかしたら監督自身もこの結末に違和感を抱いていたのかもしれない、なぜなら『隠し剣』はそこで終わらないのだから。もちろん見ず知らずの謀反人と、謀反人とはいえ兄弟弟子という違いはあるが、人を殺すという事実は同じ。『隠し剣』の主人公・宗蔵はそれを受け止め、禄を返上し武士の身分を捨てる。その姿こそ店主が『たそがれ清兵衛』で感じた違和感に対する山田監督なりの答えなのかもしれない。
同じようなリンクがやはり『武士の一分』にも繋がっていると思う。たとえば、夫の助命のため家老にその身を差し出した狭間の妻は、シチュエーションとしては同じではないか。
だが店主が萌えたのはそんなとこじゃない。下級武士と奉公人の娘との切ない恋とあるが、「旦那様が私の作った夕飯を美味しそうに食べてる姿を見てるだけでいい」なんて王道メイド萌えメイド喫茶等のコスプレではなく、あくまで史実のメイドさんに萌え〜の世界じゃないですか!と思ったのは最近ようやく『エマ』を読破したからだけじゃないはず。
確かに、女中を英訳すればmaidですからね。コスプレだけでなくこのメンタリティに萌えよ!しかしなぜ人はメイドに萌えるかというと、そこに上下関係があるからかもしれない。身分の差がある、だけど心が通じ合う。そのギャップに人は萌えるのだ。
これが対等な関係――例えば夫婦の間柄だったら、「判り合えて当然」となる。逆に「当然」なのに判り合えないという不満も出るかもしれない。
だが、考えてみれば一世代前の夫婦関係なんてのはまさに「旦那様と女中」だった。
昔のホームドラマだと、お母さんはお父さんには敬語でしたよね。
近代法のもとでは対等であるはずの夫婦関係、であるにもかかわらずそこに上下関係があると指摘したのがフェミニズム(って言い方なんかこそばゆいんだよな)なわけで、その結果、女性とパンストは強くなった。
じゃあ昨今のメイドさんブームというのは、もはや家庭で「旦那様」とかしずかれなくなった男たちの反動的復古趣味なのかもしれない。
だが、ここで描かれている「旦那様と女中」の関係は、決してウーマンリブ(注・「フェミニズム」の蔑称)がとやかく言うような支配と服従の構図じゃないはず。
いわば甘噛みの上下関係と言うべきか。
この「甘噛み」という語、辞書には載ってないけど普通の言葉なんですね。
動物がじゃれあって噛み合ったりするのとか。実は店主、18禁で覚えたクチですが【爆】
最後のシーン、きえは宗蔵に対する恋心など、そんな身分違いなことなど「考えたことなどなかった」という。そんなきえに対して宗蔵は「じゃあ考えろ」と言うのだが
きえ「それは命令だべか」
宗蔵「――命令だ」
もちろんそこには厳格な上下関係はない、あくまで人間同士の対等な関係があってそれが上下関係という衣を着てるだけ、あくまで「振り」なのだ。
そう思うとメイド萌えの封建性とか夫婦の平等とかいうのが馬鹿らしくなってくる。たまにはメイドプレイもいいんじゃないだろうか、あくまでコスチュームプレイなのだから。要は心が通じ合ってればそれでいいだけの話。
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