最近、いじめによる子供の自殺が沈静してきたかと思ったらまた、今度は不祥事付きでニュースや紙面をにぎわせている。
でも、沈静してきたといってもそれはただ単に毎日新聞などで接してきて、感覚が麻痺してきただけかもしれない。それはとても恐ろしいこと。
斯く言う店主も小学生の頃はいじめられっ子だった。
でも、今こうして生きてとりとめのない戯言をネットに垂れ流したりしている。
苛められる側にも問題があるという言い方はかつてその一人だった側として絶対に許さない。だが、責任があるとするならば彼ら彼女らが死という逃げ道を選んでしまったことだ。
店主だって死のうと思わなかったと言ったら嘘になる。一時期、刃物やロープ、猛スピードでホームを通過していく電車が怖かった。ぽんと背中を押されたら自分も死を選んでしまいそうで。
今でもときどき怖くなる。今は死ねない、少なくとも頭の中にあるもの総て形にしない限り死ねないと思っているにもかかわらず、である。
今、この状況はそんな苛めを受けている子供たちにとっては最悪だ。
毎日テレビや新聞で流れる自殺のニュースが知らず知らずのうちに彼らの背中を押してしまっているような気がする。じゃなきゃ、いくら苛めによる自殺は今までもあったとはいえ、これだけ集中して起きるなんてありえない。
死を決意してしまった者は、もはやその終着点しか見えてないのかもしれない。
だったら、どんな呼びかけも届かないのかもしれないけど。
でも「負けたっていい」「逃げたって構わない」
その言葉はきっと彼らの眼を開かせてくれるはず。
この頃辺りから、今まで「がんばれ」「負けるな」続きだったTUBEの歌詞が
「負けてもいい」「泣いてもいい」にシフトしていっている。
確かに以前からこの手の詞はあったが、がんばれ系の曲にも現れているというのは顕著な例。
どだい、一対多数に一人で立ち向かうというのが無理な話。
それを一人で背負い込んでしまうから、最後は背負いきれなくなってしまう。
自分は幸運なことに家族が100%自分を肯定してくれる逃げ場としてあったから、ここまでがんばって来れたんだと思う。
とにかく、言いたいことはこの詞に結実している。
でも、沈静してきたといってもそれはただ単に毎日新聞などで接してきて、感覚が麻痺してきただけかもしれない。それはとても恐ろしいこと。
斯く言う店主も小学生の頃はいじめられっ子だった。
でも、今こうして生きてとりとめのない戯言をネットに垂れ流したりしている。
苛められる側にも問題があるという言い方はかつてその一人だった側として絶対に許さない。だが、責任があるとするならば彼ら彼女らが死という逃げ道を選んでしまったことだ。
店主だって死のうと思わなかったと言ったら嘘になる。一時期、刃物やロープ、猛スピードでホームを通過していく電車が怖かった。ぽんと背中を押されたら自分も死を選んでしまいそうで。
今でもときどき怖くなる。今は死ねない、少なくとも頭の中にあるもの総て形にしない限り死ねないと思っているにもかかわらず、である。
今、この状況はそんな苛めを受けている子供たちにとっては最悪だ。
毎日テレビや新聞で流れる自殺のニュースが知らず知らずのうちに彼らの背中を押してしまっているような気がする。じゃなきゃ、いくら苛めによる自殺は今までもあったとはいえ、これだけ集中して起きるなんてありえない。
死を決意してしまった者は、もはやその終着点しか見えてないのかもしれない。
だったら、どんな呼びかけも届かないのかもしれないけど。
でも「負けたっていい」「逃げたって構わない」
その言葉はきっと彼らの眼を開かせてくれるはず。
この頃辺りから、今まで「がんばれ」「負けるな」続きだったTUBEの歌詞が
「負けてもいい」「泣いてもいい」にシフトしていっている。
確かに以前からこの手の詞はあったが、がんばれ系の曲にも現れているというのは顕著な例。
どだい、一対多数に一人で立ち向かうというのが無理な話。
それを一人で背負い込んでしまうから、最後は背負いきれなくなってしまう。
自分は幸運なことに家族が100%自分を肯定してくれる逃げ場としてあったから、ここまでがんばって来れたんだと思う。
とにかく、言いたいことはこの詞に結実している。
行かないで 行かないで
人は誰でも弱きもの
消さないでね 消すことはない
命の灯火 君だけのものじゃないよ
コメント
今回のいじめの報道で、高校にもいじめが結構あることに驚きました。気に入らない人間が居るのは仕方ないとしても、いじめずに距離を置けばいいのにと思うんですけどね。私も「いじめられる側も悪い」という理論は断じて賛成できません。どんなにむかつく奴でもイヤな人間でも、人をいじめて良い理由にはならないと思います。
自分は女子グループ制(?)から割と早い段階で独立を果たした(笑)こともあって、いじめに加わった経験は無いですが、なぜ複数でいじめるのかという心理には非常に興味がありました。聞き込んでみたところ、いじめ主犯の理論は総じて自己弁護で、共犯は大体「誰々にやれって言われて・・・」が多かったです。おそるべし。
今にして思えばそれほど陰湿なものではなかったような気がします。
それでも、当時の自分にしてみれば相当ひどいものだったはずですが
今の虐め(こういう風にも変換されるのね。むしろよく現状を表してるかも)
はかなり陰湿ですよね。特に女子。直接暴力をふるうようなことがないだけ
余計陰でねちねちと、というイメージがあります。
この辺は桐壺の昔から変わってないんでしょうか。
女子の場合、やっぱり『トイレ友達』に代表される“グループ制”と密接に関わってるんでしょうね。
自分は小学生のときにドロップアウトして以来、オフでは『孤高のお一人さま』を通してきましたが、そのくせオンではこうして常連さまとのつながりに依存してしまう自分がいたりします。
人の「群れたい」という本能はサルの子孫である以上、切っても切り離せないものなのでしょうか?それが『自分』と『他者』に線を引き、虐めや差別に結びついてしまうとしたら、これはもう人間の業なのでしょうか・・・。
>女子のいじめ
ふとした切っ掛けで凄いのが始まりますね。自分も1回小学生の時にいじめられたことがありますけど、もーイヤでイヤでしょうがなかったです。男子にも参加する奴がいたので、人間には男女問わず、人を虐めて愉しむ嗜好が備わってるように当時は思えましたよ。親の前では「ふつーの良い子」、がそういういじめをしていたので。
>ドロップアウト
私は3〜4歳の時でした。ここらへんはジェンダーやセクシュアリティが関わってくるのですが、まぁ保育園に入ってすぐ「女の子の集団に入るのはムリだな〜」と思ったって感じです。だからいつも「友達」の一人一人と「自分」の一対一の関係を大事にしてきました。大学では、わけがあって学年内アウトローなので「おひとりさま」ですよ。
自分の場合は『転校生』という妥当すぎる理由でした。
もともと他人とあまり係わり合いになりたがる子じゃなかったのが不運でしたね。
「自分とは違う」人間に対して排除の力が強く働くのは、やっぱり日本人が単一民族幻想なんてものを持ってるからでしょうか?「みんな違ってみんないい」が私の持論です。
でも「女子の虐め」については思いっきり軽率なジェンダー化した言説を持ち出してしまったかもしれません。反省。
ドロップアウトして以来、生の人間関係とはどうも縁遠くなってしまったので。
最近は男子すら殴り合いがなくなってしまったので、「面と向かって」「一対一で」対峙するという文化がなくなってきてるのかなと思います。
そうしなきゃ痛みなんて判らないし、弁証法的止揚のしようがない、と思うのは今どき時代錯誤な70年代少年マンガのメンタリティなんでしょうか。