偶然回したチャンネルに映し出されたのは色とりどりの菊の花で飾られた祭壇、そしてその中央に立つ白木の柱。

「あ、今日って終戦の日だったっけ」

隣に座っていた撩が呟いた。
61年前の今日、多大な犠牲を払って戦争が終わった。この国は武器を捨て、平和を保持し、今の繁栄を手に入れた。でも、戦争は果たして終わったのだろうか。

戦争は続いている。今も、世界中で。
今日の新聞でも中東でようやく停戦が発効したというニュースが一面を飾っている。
そして新聞も報じない、あたしたちの知らないところでこの瞬間も悲惨な現実は続いてるのだ。
テレビの中で述べられている哀悼の辞にはそんな現実のひとかけらもない。戦争を反省、平和国家――だったらこの国さえ平和だったらいいの?そんな言葉に白々しさを覚えた。
それは撩も同じだろう――いや、軽々しく『同じ』なんて言ってはいけない。彼こそあたしの知らない国で、あたしの知らない戦争を戦っていた一人なんだから。あたしたちが手放しで平和を享受している間に。

「なぁ、この『戦没者』ってどこまで含まれるんだ?」

その撩が言った。

「靖国神社に祀られてる『英霊』とやらは戦争に行った兵隊限定だろ?
でも戦争で死ぬのは兵隊だけじゃない、何の関係もない民間人も当然巻き込まれる」

彼もまた戦場のそんな現実を見てきたのだろう。ときに彼自身も何の罪もない人々を殺めてしまったのかもしれない。
でも国家がその死を悼むのは国のために戦った兵士だけだ。いわば死ぬのが仕事な彼らだけだ。死ななくてもいい、本来だったら死ぬはずではなかった人々の死は決して悼まれることはない。

そして撩もまた、その死を悼まれることのない存在だったのではないか。彼は正規の兵士ではなかったはず。敗れ去った、反政府ゲリラの一員だった。
そして撩は、彼が命を賭けるはずの国というものを持っていない。
戦争が国と国との闘いだった時代は、それこそこの60年の間に終わりを告げた。戦うのは祖国に忠誠を誓う兵士だけじゃない、金で雇われた傭兵もまた戦争の主役なのだ。彼らが死んだところで国家はその死を悼むだろうか。それとも、単なる使い捨ての駒として葬ってしまうのか。

今朝のニュースは一国の首相の靖国神社参拝でもちきり、それ以前からそのあり方が世間の議論を賑わしていた。国家がそのために命を落とした兵士の死を悼んで何が悪い、そう人は言う。でも、その形すら歪んできてしまっているのかもしれない。総てが公平な戦争の社会では。

確かに戦争で命を落とした死者たちを悼むのは生き残った人々の義務だ。しかし生き残った人々もまた、戦場で負った傷跡を一生背負い続けるのだ。ときに、死よりも悲惨な傷跡を。彼らの傷跡は生きている限り、苦しみ続ける限り悼まれることはない。

あたしは隣に座る撩をぎゅっと抱きしめた。

「香・・・」

せめてあたしだけでも、撩に残る傷跡を悼み続けてあげたいと、そう思った。

コメント

蛟 游茗
蛟 游茗
2006年8月15日12:37

TVで戦没者追悼式を見て、とにかくこの二人に何か語らせたかったんです。実際の戦場を知る撩に、そしてその撩の一番傍にいる香に。
ということで日記に初フィクション投下。
本来だったらhtml化してHPに載せるか、どこかの投稿CGIに持ち込むかすべきだったんでしょうが、あまりにも時事ネタなのでここに載せました。
そのうちCHコンテンツに『定点観測』CGIを載っけて、CHキャラにリアルタイムな世の中などを語ってもらおうかと考えています。

日記内を検索