本当はレヴュー書く気なんて無かったんだけど、ふと考えてたら書きたくなったので。

『ラヂオの時間』、言わずと知れた三谷幸喜の初監督作品ですが
もともとは演劇だったのを映画化したもの。
だからその前日の『みんなのいえ』と見比べて、笑いのツボが微妙に違うなーと思った。どんどん話がムチャクチャになってくる。
ちょっと話題が変わりますが、店主はモノを書く上でリアリティってのを大切にしたい人です。だから小説を読んでて設定にボロがあったりすると、いくらプロットが面白くても一気に熱が冷めてくることがよくある。
でも、媒体によって要求されるリアリティの度合いというのは変わってくると思う。たとえばマンガやライトノベルで要求されるリアリティと、いわゆる本流の小説で要求されるものはまったく違うはず。
(ということで店主の駄文に設定ミスがあってもご容赦くださいm(_ _)m)
ということで話がやっと元に戻りますが、『ラヂオの時間』のスラップスティックさは舞台上では許されるが、映画としては「?」なのだ。
その点『みんなのいえ』では題材が題材ということもあるだろうが、最初から映画用に書き下ろしただけあって、どちらかといえば地に足のついた、細かい笑いを狙っていると思う。
ここでふと思い出したのが、ブレヒトの異化効果
観客にリアリスティックに感情移入してもらうのではなく、あくまで舞台上の出来事であるとの距離感を持たせるということらしいのだが、詳しいことは店主にもパス(←ってその道のプロだろ?)
というと普通の演劇とは異なった、一種アングラ的なものを思い浮かべるかもしれないが、意外と演劇一般に当てはまるものかもしれない。
ミュージカルでも、保守本流たる新劇でも、
観客は「んなやつぁおらんやろ」(cこだま・ひびき)と思うかもしれないが
その一方で「これは舞台だから」とどこか割り切って筋を追ってるのだ。
これをTVや映画でやられたら笑ってしまうのだが。

ということで、ケタケタとTVの前で大笑いしながらも、どこか素直に笑えなかった店主がいた。これが舞台だったらもっと大笑いできたのだろうが。

コメント

nophoto
たしま屋@ミタニスト
2006年2月7日2:01

『ラヂオの時間』って言やあ、それこそDVDで数十回は観てますが、

一番笑えるのが渡辺謙って…(汗)

正直、映画でなければいけないって作りではないですよね、三谷作品。
ただ、DVDの特典映像とかで、ベルリン映画祭での上映シーンがあるんですけど、ウケてるんですね
ドイツ人に。

これ観て思ったのが、
より多くの人と笑いを共有したいなって気になるんですよ。三谷作品って。

で、映画館(←なんだそりゃ!)

テレビの世界でそこそこの実績を残しながら、未だに年一ペースで舞台やってる三谷幸喜だから、おそらく観衆の笑い声も演出に含めてるんじゃないかと思うんです。

先日、『THE有頂天ホテル』を映画館で観た時とか、大ウケの前に劇場内に“笑いの初期微動”みたいなのが起こって、オチでドカーンと大爆笑に包まれたんですけど、
テレビじゃありえないでしょうね、コレ。
狙ってやってんのかなあ…

蛟 游茗
蛟 游茗
2006年2月7日22:10

おぉっ、初ゲストコメントでございます!
ありがとうございますたしま屋サマm(_ _)m

>一番笑えるのが渡辺謙
実はTV欄に彼の名前があったからこそ母に付き合って見ようと思ったんです。
世界のケン・ワタナベにコメディやらせられるのってもはや三谷氏ぐらいなんじゃないでしょうか?NHKの『川、いつか海へ』で儲からない旅館の主させてましたし。

>おそらく観衆の笑い声も演出に含めてるんじゃないかと
三谷氏の作品を論じるときによく引き合いに出されるのが『シット・コム』、いわゆるシチュエーションコメディなんですよね、アメリカの。例えば『フレンズ』とか『フルハウス』とか。
あれって舞台中継みたいな感じで撮影してるので、必ず観客の笑い声って入ってるんですよね。
それを『HR』で再現しようとしていましたが。
でも三谷氏の場合それを意識してるんじゃなくて、舞台の方法論でTVなり映画なりのホン書いてたら自然にそうなっちゃったような。
そういう意味ではTVの前で一人でってのは本当はやっちゃいけない見方なのかも。観客(=視聴者)の笑い声も演出のうち、なんですから。

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