近所にシネコンができたので、早速母と、一回目上映割引で。
台風が近づこうとしてる中、平日の午前中で客席はガラガラでしたが。

感想。
やっぱり文庫本で上下巻ある大作を2時間半弱に収めるには、やっぱり端折るしかないですが
その結果仙石先任伍長のダイハードになってしまったような。
真田広之が演る時点でそうなってしまうのは目に見えてましたが。
くだびれ中年フェチとしては、もうちょっと普段のCPOとしての仙石を見たかった。
なので、彼が先任伍長として、一人の人間として背負っているものが映画だけではいまいち見えてこない。彼一人がDAISや工作員、彼らにそそのかされた幹部たちとは違う、いわば地に足のついたものを持っているのだから、その辺の対比が見えてこなければただのアクション映画になってしまうのではないか。
その辺りの人間ドラマは原作を読め、ということか。確かに原作でしっかり書き込まれた背景や内面はバッサバッサと切り捨てられているような。それが映像と活字というメディアの違いなのか。
最近は映画公開前に関連書籍がやたらと出まくるが、それを読まなきゃ十全に理解できないというのは映画として失格だと思うのだが。

しかし、ブックレビューでも書いたが、こういった映画が節目の年に公開されるということ自体、時代が変わったなというか。
10年前だったら『戦争』といえば50年前のものでしかなかった。
しかし戦後60年のこの夏、TVではお決まりの『火垂るの墓』だけでなく、世界で今起こっている戦争を取り上げたドラマ,ドキュメンタリーが多数放送された。
もちろんこの10年の間に世界情勢が激変したというのもあるが、もうそろそろ戦争を客観視し、そして自分たちの問題として捉え直す必要があるのかもしれない。
それにしても新聞で『鋼の錬金術師』が戦後60年で見るべき映画だと書かれてたのはビックリしたが【笑】

最後に、見終わったあと母がやたら不満そうだった。
バッサバッサとカットされただけでなく、ストーリーの設定などをだいぶいじくられたのが不満だったようだ。
店主はそうは思わない。むしろ忠実にやられたら見るだけ損だと思っただろう。なぜならこれはこれで、また新しい『イージス』を見ることができたのだから。
そもそも、店主のようなアニメ好きの場合、映像化された時点で原作からスピンアウトしてしまうことがあるというのは覚悟の上だ。そしてその二つの関係はいわば“パラレル”となる。
もちろんこの『イージス』やその他の場合は“原作”というのがしっかり存在していて、映像の方はその傍流、という捉え方になるのだが。それがパトとは違うところ
だから原作への“忠実度”を問題とする。何をもって“忠実”と呼ぶかは人それぞれのはずなのに。
そう思うと、AHに目くじら立ててるCHファンの心理も何となく判るような気がする(←結局そこかい!)
でもそれはそれ、こっとはこっちでいーじゃない、と店主は思うのだが。
自分の好きなものだけ詰め込んでしまえばいい。たとえその結果Authorityを持つものすら否定する結果になってしまっても。
(Authority:権威←Author:著者)
言っちゃあなんだが、作品を作品として成り立たせるのは“受け手”である我々読者、視聴者自身なのだから。

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