大学院生みづちの日常
2004年11月28日 時事ニュース午後からの用事というのは学校での講演会。
うちの学校ではCOE(特色ある大学教育プログラム、とかなんとか)でジェンダー系のを取り扱ってて、その手の講演会は結構頻繁にやってます。
そして今回のテーマは“Female Masculinity”、つまり『女性の男らしさ』。サブカル好き院生の店主にとっては大いに気になるテーマですが予感は的中!もしかしたら午前中より(その発展性という点においては)収穫があったかも・・・。
会場の大講義室には女性ばかりでなく男性の観客も結構いたりして。中には外国人の方もいて、その中の一人はNHKイタリア語講座のジローラモ氏似【笑】の、スーツに真っ赤なシャツ。
え、なんでわざわざ細かく服装描写するかって?今日の講演者、Judith Halberstam女史として紹介を受けたのはなんとその方。え、女性?髪形なんかいわゆる五分刈りのベリーベリーショート。さすが、Female Masculinityをテーマにするだけのことはある。
ところで、店主が常々思うのは人間はみな男らしくあるべきなんじゃないかということ。なんだかんだいって、男らしさの方が美徳といわれる点は多いように思えるのだが。強さや逞しさとか行動力とかリーダーシップとか。もちろん強さが暴力に結びついちゃいけない。そういった『男らしさ』は克服されなければならない。しかし、本当に男らしい男はそんなことしないんだ!と密かに思ってるのだが。
やっぱり店主が惚れる男も『男らしさ』がポイントだし。
でもこれが『男らしさ』という世の中の半分にしか適応されないような名前で言われてるのが問題なんだよな。といっても他の名前で呼ばれたところで何のことだか判らないんじゃ意味ないし。
さて、今回の副題には『アブグレイブの前後で』なんてのが付いてましたが、テーマはそういったタイムリーなものではなく、もっぱら『女性の男らしさ』の歴史的経緯について。
その中で、女性兵士の増加によって
ちょっと専門的な話になるが、『エクリチュール・フェミニン』という文学用語がある。日本語に直すと『女性の言葉』だ。つまり、女性文学者は男性的な、起承転結のきちっとした構成美を持つ文章ではなく、女性的でたゆたうような文体で勝負すべきだという議論だ。
(その代表格がヴァージニア・ウルフらしいが、店主もさほど詳しいわけじゃないそれでいいのか英文科!)
これには多少違和感を持った。店主が影響を受けてきた作家は(プロアマを問わず)ほとんど男性であり、自分の文体もどちらかというと男性的っぽいんだろう。書いてるジャンルはカップリングものというきわめて女性向ジャンルだが。
こういう、「女性は女性らしさで勝負すべき」という主義は裏返せば女性らしさの裏付けになってしまうのではないか。それはフェミニズムの一番嫌う主張ではなかったのか。
そしてそういう『らしさ』の押し付けはスカートははかない、化粧はしない、そして男言葉を使いたがる店主が最も嫌うところのものだ。店主みたいな男っぽい女がいたっていいじゃないか。女らしい男がいたって構わないじゃないか。でも店主に「お前明日から男になれ」と言われても絶対イヤって逃げ出すな、多分。だって世の男性方が負ってる責任なんて店主に背負いきれるもんじゃないし。
でもそう言ってしまえば、別冊宝島のパト本に載ってたキャラクター精神分析の『男性原理』『女性原理』も成り立たなくなるな。
ところでパトの中で一番『男らしい女性』である南雲隊長がいかにも女性らしい外見であるってのは考えてみるとなかなか面白い。いわゆる『戦う女』の外見的コードからは外れてるよな、例えば士郎正宗的な。これは従来の『男らしい女性』像へのアンチテーゼかそれとも『女性的な強さ』への回帰か?などなど
また、特車二課、特に第2小隊の男女比も特筆に価するよな。ロボットアニメなんかじゃ主要登場人物の中に紅一点てのが相場だったりするんだが、パトではタイプの違う女性が述べ4人も登場するんで、店主のようなノーマルカップリング好きには非常にやりやすい設定だったりする、
などとエヴァ以降アニメをアカデミックな枠組みの中で見るのが一種の流行のようになっているが、パトなんかこういった女性表象で見るととても面白い題材なんだよな。それだけにP2はやっぱ納得いかない。メロドラマ的枠組みの中では女は「所詮は女」に成り下がってしまうから
でも日本の現実はともかく、マンガやアニメの面では『戦闘美少女』に代表されるこの手の女性の男らしさってのはごく普通に存在していた。でもなぜ欧米ではわざわざ研究テーマとして取り上げるほどのものなのか、もしかしたらこれは日本だけの稀なケースなのではないか?
そういった疑問を解消させてくれたのが〆の主催者スピーチ。ここで壇上に上がったのはカッコいいHalberstam女史とは正反対の、まるでアキバ系の男性。(でも多分大学で教えてる人間なんだよな)
その方が言うには、「江戸時代には『おきゃん』といわれる『女性の男らしさ』の伝統があったが、明治以降の近代化でそれは失われてしまい、その受け皿となったのがなんとタカラヅカ。そしてそれに影響を受けたのがあの手塚治虫、言わずと知れた日本漫画の父であり少女漫画の父である。その彼が少女漫画に『女性の男らしさ』の伝統をよみがえらせ、それが現在の『戦闘美少女』の系譜につながっているのではないか、とのこと。
なるほど。
つまり手塚大先生がいなければ野明もいなかったのか。
とまぁこんなのが店主のもう一つの日常です。もっとも、全く専門的で頭がスポンジ!なこともやってたりしてます。
ま、こんなことを考えたりしながらパトやらオリジやら書いてます、というわけで。
うちの学校ではCOE(特色ある大学教育プログラム、とかなんとか)でジェンダー系のを取り扱ってて、その手の講演会は結構頻繁にやってます。
そして今回のテーマは“Female Masculinity”、つまり『女性の男らしさ』。サブカル好き院生の店主にとっては大いに気になるテーマですが予感は的中!もしかしたら午前中より(その発展性という点においては)収穫があったかも・・・。
会場の大講義室には女性ばかりでなく男性の観客も結構いたりして。中には外国人の方もいて、その中の一人はNHKイタリア語講座のジローラモ氏似【笑】の、スーツに真っ赤なシャツ。
え、なんでわざわざ細かく服装描写するかって?今日の講演者、Judith Halberstam女史として紹介を受けたのはなんとその方。え、女性?髪形なんかいわゆる五分刈りのベリーベリーショート。さすが、Female Masculinityをテーマにするだけのことはある。
ところで、店主が常々思うのは人間はみな男らしくあるべきなんじゃないかということ。なんだかんだいって、男らしさの方が美徳といわれる点は多いように思えるのだが。強さや逞しさとか行動力とかリーダーシップとか。もちろん強さが暴力に結びついちゃいけない。そういった『男らしさ』は克服されなければならない。しかし、本当に男らしい男はそんなことしないんだ!と密かに思ってるのだが。
やっぱり店主が惚れる男も『男らしさ』がポイントだし。
でもこれが『男らしさ』という世の中の半分にしか適応されないような名前で言われてるのが問題なんだよな。といっても他の名前で呼ばれたところで何のことだか判らないんじゃ意味ないし。
さて、今回の副題には『アブグレイブの前後で』なんてのが付いてましたが、テーマはそういったタイムリーなものではなく、もっぱら『女性の男らしさ』の歴史的経緯について。
その中で、女性兵士の増加によって
男性=好戦的との二項対立が崩れてしまったと指摘。これは店主も大いにうなづいた。
女性=平和的
ちょっと専門的な話になるが、『エクリチュール・フェミニン』という文学用語がある。日本語に直すと『女性の言葉』だ。つまり、女性文学者は男性的な、起承転結のきちっとした構成美を持つ文章ではなく、女性的でたゆたうような文体で勝負すべきだという議論だ。
(その代表格がヴァージニア・ウルフらしいが、店主もさほど詳しいわけじゃないそれでいいのか英文科!)
これには多少違和感を持った。店主が影響を受けてきた作家は(プロアマを問わず)ほとんど男性であり、自分の文体もどちらかというと男性的っぽいんだろう。書いてるジャンルはカップリングものというきわめて女性向ジャンルだが。
こういう、「女性は女性らしさで勝負すべき」という主義は裏返せば女性らしさの裏付けになってしまうのではないか。それはフェミニズムの一番嫌う主張ではなかったのか。
そしてそういう『らしさ』の押し付けはスカートははかない、化粧はしない、そして男言葉を使いたがる店主が最も嫌うところのものだ。店主みたいな男っぽい女がいたっていいじゃないか。女らしい男がいたって構わないじゃないか。でも店主に「お前明日から男になれ」と言われても絶対イヤって逃げ出すな、多分。だって世の男性方が負ってる責任なんて店主に背負いきれるもんじゃないし。
でもそう言ってしまえば、別冊宝島のパト本に載ってたキャラクター精神分析の『男性原理』『女性原理』も成り立たなくなるな。
ところでパトの中で一番『男らしい女性』である南雲隊長がいかにも女性らしい外見であるってのは考えてみるとなかなか面白い。いわゆる『戦う女』の外見的コードからは外れてるよな、例えば士郎正宗的な。これは従来の『男らしい女性』像へのアンチテーゼかそれとも『女性的な強さ』への回帰か?などなど
また、特車二課、特に第2小隊の男女比も特筆に価するよな。ロボットアニメなんかじゃ主要登場人物の中に紅一点てのが相場だったりするんだが、パトではタイプの違う女性が述べ4人も登場するんで、店主のようなノーマルカップリング好きには非常にやりやすい設定だったりする、
などとエヴァ以降アニメをアカデミックな枠組みの中で見るのが一種の流行のようになっているが、パトなんかこういった女性表象で見るととても面白い題材なんだよな。それだけにP2はやっぱ納得いかない。メロドラマ的枠組みの中では女は「所詮は女」に成り下がってしまうから
でも日本の現実はともかく、マンガやアニメの面では『戦闘美少女』に代表されるこの手の女性の男らしさってのはごく普通に存在していた。でもなぜ欧米ではわざわざ研究テーマとして取り上げるほどのものなのか、もしかしたらこれは日本だけの稀なケースなのではないか?
そういった疑問を解消させてくれたのが〆の主催者スピーチ。ここで壇上に上がったのはカッコいいHalberstam女史とは正反対の、まるでアキバ系の男性。(でも多分大学で教えてる人間なんだよな)
その方が言うには、「江戸時代には『おきゃん』といわれる『女性の男らしさ』の伝統があったが、明治以降の近代化でそれは失われてしまい、その受け皿となったのがなんとタカラヅカ。そしてそれに影響を受けたのがあの手塚治虫、言わずと知れた日本漫画の父であり少女漫画の父である。その彼が少女漫画に『女性の男らしさ』の伝統をよみがえらせ、それが現在の『戦闘美少女』の系譜につながっているのではないか、とのこと。
なるほど。
つまり手塚大先生がいなければ野明もいなかったのか。
とまぁこんなのが店主のもう一つの日常です。もっとも、全く専門的で頭がスポンジ!なこともやってたりしてます。
ま、こんなことを考えたりしながらパトやらオリジやら書いてます、というわけで。
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