某所でちょっと気になる発言がありまして、それに対してこの場を借りて反論したいと思います。

神無月が照らしている』って歌詞に対して、「神無月が照らすわけがない」とおっしゃる方々、
Lyricを味わう資格はありません。
『神無月』ってのは望月や十六夜月のような月でも、ましてや芸人でもないということは店主も承知しています。
(そーいや神無月の松井のマネよりははなわのほうがマシだと思うのはなぜだろーか?)
でも、それが『照らしている』という論理の飛躍こそが詞であり詩なのではないでしょうか?

そもそも歌詞なんてものは曲先の場合、すでに文字数が制限されていて、そこにどうやってより豊かなイメージが詰め込めるかが勝負だと思います。となるともう定型詩の世界ですね。
だから、神無月が照らしているってのは、字数制限なく言わせて貰えば「神無月(10月)の月が照らしている」ってことです。あぁ、なんだかそっけない。
この手のメタファー,メトミニーはTUBEだけじゃなく日本語の歌詞、ひいては詩全体に顕著な特徴なんです。やはりTUBEなんですが、『シャララ』
「ひまわりが咲いている」
って歌詞だけでなんとなく夏のウキウキとした気分までが伝わってくるでしょ?これをただ訳してもその気分までは伝えられない、と『シャララ』の英語詞ヴァージョン発売のときに言ってましたっけ。
逆に英語の歌詞を和訳するときに、あっちの詞は非常に散文的というか、訳しても素っ気ない感じの歌詞になってしまうことも多々。これは、詩=韻文というジャンルが近代直前まで物語を伝えるメディアとして続いていたヨーロッパ、特に英語圏と、竹取,源氏の昔から散文による物語が発達してきた日本という、文学史的な背景があるんでしょうが、まぁそれはともかく。
でも演歌なんて、「何がどーした」じゃなくて、ひたすら『何』だけでイメージを綴っていくからね。『よこはま・たそがれ』なんて特にそう【笑】

閑話休題。さらに神無月、『神の無い月』って言葉が詞全体の孤独さ、切なさをよく表してるじゃないですか。それが照らしてるんですよ!明るく。うーんパラドックス。
もちろんそれ以前に神無月が空に浮かぶ月だと勘違うようじゃこの詞は味わえませんが。(ハイそこの受験生、くれぐれも間違わないよーに)

大体、蝉の声が岩に『染み入る』でしょうか?そんな細かい揚げ足取りで曲全体の価値を下げることもないでしょう。
って揚げ足取ってるのは実は店主かもしれませんが。

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